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Yukibou's Hideout on Hatena

自分用備忘録的な何か。

ヨハン・クライフ、空へ還る。

サッカー

ヨハン・クライフが亡くなった。

正直言って、自分はマラドーナ世代であるので、クライフにはそこまでの思い入れがない。それでも、今回のこの訃報にはガックリきた。

まず、一言めの感想が「えぇ…」という力のないもので、その後なんだか身体中の力が抜けたようになり、そしてものすごい喪失感が襲ってきた。

クライフは本物のレジェンドだった。

プレーは生では見たことがない。当然だ。彼が活躍していたのは70年代がメインで、自分は子供だった。いまのように海外のサッカーがリアルタイムで観られるわけでもなければ、日本代表がW杯に出て生中継があるわけでもない。日本サッカーリーグは閑古鳥で、テレビ中継もなかった。サッカーはマイナー競技だったのである。

サッカーマガジンを買い始めたのはもっとずっと後だった。だから、クライフという偉大な選手のことを知ったのは、マラドーナが86年のW杯で大活躍し、緑の芝生で行われるサッカーの中継を目の当たりにした小学校高学年の頃だった。

あの頃、よく「マラドーナはクライフを超えたのか?」的な特集が組まれることがあった。そうでなくても、コラム的なものでマラドーナとクライフが比較される事もあった。

当時のサッカーマガジンはプレイの解説もあって、分解写真でフェイントとかドリブルの解説がされている事もあった。そこにクライフターンがあった。「ああそうか、クライフがやったからクライフターンなのか」と、あらためて当たり前のことを知ったりもした。

その後、クライフがバルセロナの監督になると、あのトレンチコートみたいなのを着込んだ姿をよく見かける事になった。どちらかというと、印象に残っているのはこっちのクライフだ。

クライフのバルサは「ドリームチーム」といわれ、アンカー兼司令塔を置いた3-4-3を基軸としたアグレッシブなサッカーを披露した。

この時期のバルサはトヨタカップでしか見ていない。しかも、サンパウロに負けている。いいサッカーをするが負けることもあるんだな、くらいにしか思ってなかった。

93年にJリーグが開幕し、自分はよりサッカーにのめりこんでいく。そして、クライフが現代サッカーの祖である「トータルフットボール」の中心だったということを知る。

俄然興味が出てきた自分は、販売されていた74年のW杯の決勝と準決勝のビデオを買い、クライフがどれだけ凄いのかを確かめようとした。

だが、そこに映し出されていたのは、荒々しいハイプレスを仕掛けるオランダ代表の姿であって、決して伝え聞いた「美しいトータルフットボール」ではなかった。すくなくとも自分にはそう見えた。

正直言って、そのビデオを見ただけだと、クライフよりもヨハン・ニースケンスの方が凄いプレーヤーに見えた。クライフはなんというかうまくサボってるようにしか見えなかった。今でいうと家長昭博のようなタイプだ。

まあ、現代の高度に洗練されたサッカーを見慣れてしまうと、あの時代のサッカーが遅くて荒削りに見えるのは仕方のないことだ。ましてや、当時はバックパスをGKが手で扱ってもいい時代だった。攻め手がなければGKに戻して組み立て直すことが許されていた。

「未来のサッカー」と形容されたトータルフットボールは、未来の人間が見ると凡庸だった。それでも、70年代にリヌス・ミケルス監督とクライフとその仲間たちが、これをやっていたのはやっぱり凄いことだと思う。

当時は1対1で抜かれたら後を追わないとか普通だった。トータルフットボールはゾーンディフェンスの走りみたいなものなので、わりとみんなが常に動いていた。時計仕掛けのオレンジとはよく言ったものだ。

そんなこんなで、自分の「クライフ体験」は、そこまで鮮烈なものではなかった。なのに、なのにである、クライフの訃報を聞いた時のあの喪失感たるや、筆舌に尽くしがたい。彼が本物の、そして不世出のレジェンドだった証だろう。

彼は、いまのバルサのアイデンティティを形づくったカリスマであり、バルサが「クラブ以上の存在」であるならば、クライフは「選手・監督以上の存在」だった。出来れば、彼の現役時代をライブで体験したかった。だが、そうだったら今回の喪失感はもっとずっと巨大なものになっていただろう。

「空飛ぶオランダ人」と呼ばれたクライフは本当に空の上に還ってしまった。こらからは誰に気兼ねすることなく、大好きなダバコを吸い放題吸えるだろう。

さようならクライフ。

あなたの功績は忘れません。

そして、お疲れ様でした。 

ヨハン・クライフ サッカー論

ヨハン・クライフ サッカー論