
栃木県宇都宮市の
大谷資料館にいってみた。
大谷資料館は、宇都宮市中心部から北西に約5キロ、岩肌が露出した山に囲まれた場所にある。正面入り口の古びた看板を左に見ながら緩やかな勾配の砂利道をしばらく進むと三方を切り立った岩山に囲まれた少し開けた場所に出る。そこが駐車場になっていて、右奥に大谷資料館がある。資料館受付の左側にある展示スペースには、採石の際の器具などが並んでいる。しかし、何といっても一番の見所は資料館地下30メートルに広がる採石場跡である。
大谷石とは、栃木県宇都宮市大谷町一帯から採掘される「流紋岩質角礫凝灰岩」の総称である。石質が軟らかく、加工が容易であるだけでなく、重量も軽く、見た目もいいので大いに重宝された。戦前には20世紀を代表する建築家、フランク・ロイド・ライトの目にもとまり、旧帝国ホテルや淀川製鋼所迎賓館など一級の建築物に使われている。
大谷石の採掘が始まったのは、1919年(大正8年)。それから約70年にわたる採石の結果、地下に140メートル×150メートル、2万平方メートルの広さを持つ巨大空間が誕生したのである。1979年に資料館が開館し、1987年には年間18万人が訪れた。その後も10万人前後が毎年資料館を訪れている。


現在この地下空間は、その醸し出す非日常性を生かして、美術展や結婚式、テレビ・CM撮影のロケ地として利用されている。 主なものを大谷資料館のホームページから拾ってみただけでも、「ウルトラマン・ティガ」や 「らせん」(フジテレビ)、「金田一少年の事件簿」-露西亜人形殺人事件-(日本テレビ)などの映画やテレビドラマ、 B'z(MAY)、島谷ひとみ(赤い砂漠の伝説)、長渕剛(ハングリー)、GLAY(SOUL LOVE)、工藤静香などもプロモーションビデオの撮影場所として利用している。しかし、この地下空間は、戦前、戦中を通じ世界有数の航空機メーカーとして名を馳せ、日本陸軍、海軍に軍用機を納入していた中島飛行機株式会社(現富士重工業株式会社)が、二つの工場を稼動させていた場所であったのである。

中島飛行機株式会社は、当時、自社でエンジンから機体の開発・生産までを一貫して行うことのできる技術力を備えた世界有数の航空機メーカーであった。1917年に海軍大尉で退役した中島知久平が、郷里の群馬県尾島町(現太田市)に飛行機研究所を設立したのを端緒とする。中島は定員40名の海軍機関学校の入学試験に、受験者2,000名中21番目の成績で合格し、銀時計組として卒業した俊才であった。任官後は海軍航空技術研究委員会にて実地研究に没頭、さらには横須賀海軍工廠造兵部の飛行機造修工場長、監督官などでキャリアを積んだ。転機となったのは、1916年ファルマン機生産監督のためのフランス出張である。近代戦争における航空機の重要性を痛感した中島は、「経済的に貧しい日本の国防は航空機中心にすべきであり、世界の水準に追いつくには民間航空産業を興さねばならない(不肖、爰(ここ)に大いに決するところあり・・・海軍における自己の既得並びに将来の地位名望を捨てて野に下り、飛行機工業民営起立を劃(かく)し、以って之が進歩発達に尽くす)」と、1917年10月休職願を提出、民間の飛行機会社を設立するのである。
1917年5月に郷里の尾島町に小さな養蚕小屋を借りて、細々と始めた「飛行機研究所」であったが、やがて太田町の金山の麓にある大光院隣の旧博物館を一ヶ月3円で借りあげ、移転した。この二階建て(一部三階、約100坪)の旧博物館の建物は、東京蛎殻町の米穀物取引所を東武鉄道の創始者根津荷一が移設したもので、一階を事務所、二階の十畳ほどのスペースは中島の居室と設計製図室として使われた。建物前には太鼓橋が架かる大きな蓮池もあり、瀟洒たる佇まいであったという。
所員はほとんどが20代で、初期においては失敗も多く、米騒動のあった1918年には、
「札はだぶつく お米はあがる 何でもあがる あがらないぞい 中島飛行機」
と揶揄されるほどであった。
しかし、1919年10月に開催された帝国飛行協会主催の第一回東京大阪間懸賞郵便飛行競技会への出場が大きな転機となる。この大会は8貫目の郵便物を携え、無着陸で東京-大阪間を往復する時間を競うという競技会であったが、中島飛行機(1919年に中島飛行機製作所と改称)からは、中島式四型ホールスコット150馬力機と中島式六型200馬力機の2機が出場した。六型機は往路不時着し、失格となったが、四型機は往復6時間58分で優勝したのである。さらに失格した六型機は復路、優勝した四型機を上回る2時間39分で戻ってきたのである。(優勝機の復路飛行時間は3時間18分)
同年中島飛行機は陸軍から中島式四型練習機(中島式五型複葉機・練習機として納入)20機を受注する。陸軍が日本人設計の機体製造を民間に依頼したのはこれが初めてであった。この陸軍から20機の受注を皮切りに、中島飛行機の生産能力は飛躍的に伸びていく。例えば陸軍機の専用工場であった太田製作所では1935年の生産機数は300機弱だったが、1939年には1,000機を越え、1943年には3,500機にも達した。昭和20年になると、軍用機の機体製造シェアが36.3%、発動機(エンジン)製造のシェアは32.2%に達し、三菱重工以下他のメーカーを抑え業界トップに君臨していた。

中島知久平自身は1930年2月、第17回衆議院議員総選挙に群馬一区から立憲政友会公認で出馬、当選を果たした。以降衆議院議員を五期に渡って務め、1937年6月には近衛内閣の鉄道大臣に、1939年に政友会が分裂した際には政友会革新同盟総裁に就任、そして東久邇内閣においては、軍需相、軍需相解体後は商工大臣を務めた。政治の世界から航空機産業をサポートしようというのがその狙いであった。
<写真:中島知久平>
さて、大谷の地下空間の話に戻る。ここに移転したのは、中島飛行機(株)宇都宮製作所城山機体工場と中島飛行機(株)武蔵製作所大谷発動機工場の二つの工場である。宇都宮工場は1944年1月より操業を始めた比較的新しい工場で、陸軍四式戦闘機「疾風(はやて)」の機体・部品生産を行っていた。当初計画では、敷地面積90万平方メートルの大工場となる予定であったが、1945年8月13日の米軍による攻撃で工場は壊滅した。一方の大谷発動機工場の方は、疾風のエンジン(ハー45・12型・18気筒エンジン)の部品生産と組立を行っていた。大谷に移転した城山工場と大谷工場の規模はそれぞれ99,900㎡(第二位)、86,700㎡(第五位)であったので、当時日本全国に100箇所あったという地下工場の中で、最大の横須賀海軍航空工廠(約112,500㎡)を凌ぐ日本最大規模の地下軍需工場であった。
ちなみに戦後米軍は、残った日本軍の戦闘機を片っ端から破壊したが、この工場で製造されていた疾風は二機だけ破壊を免れた。そのうちの一機が鹿児島県知覧町の特攻平和記念館に展示されている。
さて地下工場の稼動が始まった翌月の1945年4月には、中島飛行機は国営化、第一軍需工廠となり、最盛期には、微用工・女子挺身隊員・通年動員による旧制中学3年以上の男女学生・坑内工事関係者・関係軍人など合わせて15,000人が工場に勤務していたが、8月には終戦に伴い稼動を中止、大谷の地下工場はわずか5ヶ月でその役割を終えたのである。
8月には全工場が返還され、「富士産業」として再スタートを切ったが、GHQは、日本の航空産業が二度と米国の脅威とならないように、日本の軍需産業を解体した。富士産業も例外でなく、1950年ばらばらに分割され、事実上解体された。
<解体された中島飛行機の現在の存続企業>
中島飛行機本社→東京富士産業→
富士重工業 (SUBARU)
中島飛行機太田工場・武蔵野(三鷹)工場→富士工業→
富士重工業 (SUBARU)
中島飛行機伊勢崎工場→富士自動車工業→
富士重工業 (SUBARU)
中島飛行機大宮工場→大宮冨士工業→
富士重工業 (SUBARU)
中島飛行機宇都宮工場→宇都宮車両→
富士重工業 (SUBARU)
中島飛行機浜松工場・中島飛行機東京工場(荻窪)→富士精密工業→プリンス自動車工業→分離独立・リズムフレンド製造→リズム自動車部品製造→
株式会社リズム
中島飛行機前橋工場→富士機器→
富士機械製造株式会社
中島飛行機半田工場→愛知富士産業→
輸送機工業株式会社
中島飛行機三島工場→富士機械工業→富士発動機→富士ロビン→
株式会社マキタ沼津
中島飛行機栃木工場→
栃木富士産業(2006年4月28日上場廃止、ジーケーエヌ・ドライブライン・栃木ホールディングス(株)の完全子会社に)
中島飛行機黒沢尻工場→岩手富士産業→
イワフジ工業株式会社
(Wikipedia日本語版より)
企業として存続しているかつての工場のほかにも、三鷹総合研究所の試作設計部門と試作工場の設計本館が国際基督教大学のキャンパス内に残っている(老朽化のため、新本館建設後に取り壊し予定との話もあるが、現状不明)。この三鷹総合研究所は、中島知久平が「遠大なる日本の将来を構想し、政治経済から工学までを含む総合研究所設立」のため、1941年12月8日に三鷹に50万坪の用地を確保したものであった。戦況悪化によりその構想が実現することはなく、構想の一部である試作設計工場が1943年から2年ほど稼動しただけであった。
ちなみに現在の国際基督教大学のキャンパス内には泰山荘という中島知久平が晩年を過ごした居宅も残っている。中島は、この泰山荘で前代未聞の爆撃機の構想「富嶽計画」を練っていた。全長45メートル、全幅65㍍、全備重量160㌧に計6基のエンジンを搭載し、出力30,000馬力(5,000×6基)、速力680㎞/h、航続距離16,000㎞という超大型爆撃機の製造計画である。この新型爆撃機を使ってアメリカ本土を爆撃し、そのまま無着陸で大西洋を横断し、当時ドイツの占領下にあったフランスに着陸するという壮大な構想であった。中島自身も1944年2月「富嶽試作委員長」に任命され、1945年5月の飛行実験開始に向けて作業が始まった。しかし1944年7月、サイパンが陥落すると、軍は計画中止を命令、結局富嶽はエンジン部分のみの開発が完成したのみで、機体の設計にも至らなかった。
終戦後中島は、A級戦犯容疑者に指定され、泰山荘で主席検事の尋問を受けている。以前のエントリーでも書いたが、極東国際軍事裁判(東京裁判)におけるA級戦犯とは
第5条(人並ニ犯罪ニ関スル管轄)
(イ)平和ニ対スル罪:即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加
(ロ)通例ノ戦争犯罪: 即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反
(ハ)人道ニ対スル罪: 即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為
この条例の英語版では、イロハがそれぞれ、a、b、cとされていたため、それぞれA級戦犯、B級戦犯、C級戦犯と呼ばれている。極東国際軍事裁判(東京裁判、GHQ裁判とも言う)ではイの項目つまりA項目に対して最も重い刑を課したので、結果としてA級戦犯が一番悪いとの「印象」を与えることとなったが、条文を読めば分かるとおり、a、b、cは戦時における行為による分類であり、罪の軽重による分類ではない。そして繰り返しになるが、ナチスのホロコーストを念頭に設けられた(ハ)項つまりC級戦犯で有罪になった日本人は一人もいない。「BC級戦犯」という言い方は、AからB、Cの順番に罪の軽重があることを言外に意味し、かつ日本人にC級戦犯がいなかったことを考えれば、誠に不正確な表現であると言えよう。
いずれにしても中島を(イ)項、つまりA級戦犯として追及するには、あまりにも無理があったのであろう、1947年9月戦犯指定から解除されている。中島は1949年10月29日、「近い将来日本の産業は復活する。今後は日本も自動車の時代が来る」という言葉を残し、泰山荘で64歳で亡くなっている。
それにしても、常識を超える爆撃機づくり、三鷹総合研究所に抱いていた遠大な教育機関の設立構想など中島知久平の発想がいかに時代に先んじていたか、今の財界に同レベルの構想力を持つ人材はいるであろうか。
大谷石を用いた主な建築物
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旧帝国ホテル:F.L.ライト設計、1922年(大正11年)建設、大正12年9月1日の関東大震災にも耐えるが1967年解体、名古屋の博物館明治村に一部移転。
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淀川製鋼所迎賓館:F.L.ライト設計、1924年(大正13年)竣工、1974年重要文化財に指定、1989年より一般公開されている(兵庫県芦屋市山手町3-10)
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下野国分寺・下野国分尼寺(下野国分寺跡):741年(天平13年建立)
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宇都宮商工会議所:安美賀(やすみ・よし、宇都宮工業高校初代校長)設計、昭和3年(1928)5月竣工。昭和54年8月、県の救急救命センター建設のため、解体される。昭和60年に宇都宮中央公園に一部復元される。
・ 城山村公会堂(大谷町に現存)
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神奈川県立近代美術館:坂倉準三設計で1951年建造。鎌倉館1階部分に使用されている。
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自由学園明日館:F.L.ライト設計で1921年建設。1997年に重要文化財に指定される。見学可能。(東京都豊島区西池袋2-31-3)
<追記>
2011年7月6日付朝日新聞の報ずるところによると大谷資料館は、東日本大震災の余震と計画停電の可能性を踏まえて暫時休館することとなり、再開時期も決まっていないとのことである。