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太田市立 新田荘歴史資料館
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常設展示

近・現代

明治維新を迎え、市域の大半は岩鼻県に属しました。明治4年(1871)の廃藩置県により、東毛3郡(新田・山田・邑楽)は栃木県に属しましたが、明治9年(1876)に群馬県に属しました。
この頃、日光例幣使道の宿場町としての役割を終えた太田宿等は衰微しましたが、近代化の進展とともに東武鉄道の敷設や電話等通信網の発達によって、次第に活況を呈するようになり、大光院の参詣者も増大しています。

こうしたなか、大光院東に日本最初の民間飛行機製作所の「飛行機研究所」が押切町出身の中島知久平(なかじまちくへい)によって大正6年(1917)に創立されると、満州事変等を契機として飛行機産業は飛躍的に発展し、昭和11年(1936)には三十万大都市計画も打ち出されるほど街勢は進展いたしました。
しかし、飛行機産業も終戦により終焉を迎え、戦後は飛行機産業で培った技術力を礎として、スクーター工業(現富士重工業(株))やメリヤス工業等を興し、産業復興が図られ、輸送機器を中心とした北関東随一の工業都市として発展してまいりました。平成17年3月の1市3町(太田市・尾島町・新田町・藪塚本町)の合併を経て、現在では人口22万余の東毛の中核都市として、躍進を遂げています。

 

中島知久平(1884〜1949) 実業家・政治家

中島知久平は押切町に生を受け、日本最初の民間飛行機会社「飛行機研究所」を大正6年(1917)に開設し、昭和6年(1931)に株式会社に改組するほど飛行機産業の進展に寄与した人物で、「飛行機王」と呼ばれ、技術力の高さや飛行機の生産量など、実業家としての誉れを高めました。
一方、昭和5年(1930)に衆議院議員に初当選し、以後4選を果たし、昭和12年(1937)に鉄道大臣、昭和14年(1939)に政友会総裁、昭和20年(1945)に軍需大臣・商工大臣に就くなど政治家としても活躍し、惜しまれつつ昭和24年(1949)10月に逝去されました。
また、昭和6年(1931)中島知久平が父親のために建設した新邸(中島知久平邸)は、平成21年(2009)に市重要文化財に指定されています。現在、中島知久平邸地域交流センターとして、建物の一部が公開されています。

 

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