伊藤飛行機研究所 (伊藤音次郎)習志野市鷺沼NO 837
テーマ:ブログ里山の風景もう随分と昔の話になりますが
現在の千葉市稲毛海岸に日本初の民間飛行場があったのを御存知でしょうか?
この話に関連した事を以前、ブログNO 401、NO 410で紹介しましたが
大正元年(1912年)に、元、日本海軍軍属技師の奈良原三次を中心に
稲毛海岸に民間飛行場を開設されました
その時のメンバーが『奈良原三次』『白戸榮之助』『伊藤音次郎』『大口豊吉』
そして大正4年(1915年)伊藤音次郎氏は奈良原氏より独立し伊藤飛行機研究所を創設
処が大正7年(1917年)9月台風による高波で飛行場、格納庫が壊滅してしまいます
その後、伊藤音次郎氏が新しく飛行場としたのが習志野市鷺沼の海岸
当時の伊藤飛行機研究所の写真がありました
そしてその格納庫がある上の高台が
なんと!我が会社のA課長の自宅になるわけです
そしてA課長は子供の頃、研究所の格納庫で遊んで居たと言うのです
格納庫の中の壁には木製のプロペラが置いてあり
その場所を『東亜』と呼んでいたと教えてくれました
課長宅の前から、元伊藤飛行機研究所のあった場所を眺めてみました
袖ヶ浦5丁目、ここは滑走路となっていた海岸だったのです
現在、国道14号線が走り、東関東自動車道、京葉道路の
高速道路が交差する場所となっています
昔と言っても昭和39年、東京オリンピックがあった50年前までは
波が打ち寄せる海岸だったとは信じられません!
この場所で、伊藤音次郎氏は空を飛んでいたのですね!
まだ、世の中は車さえ普及してない時代に
飛行機とは…!?
今で言うならロケットに乗って宇宙へ飛び立つ事に値しないかと思われます!
当時の最先端を行くCityboyだったのでしょう!
『左、奈良原三次氏、右、伊藤音次郎氏』
奈良原氏 伊藤氏の写真を見てもわかりますが、いい顔しています!
自分の夢、目標を持って生きている人は
違いますね、生き々としています!
当時の女性の方にはモテモテではだったのではないでしょうか?
そんな訳で結婚はどうされたのか?
調べて見ると
今の稲毛大橋の近くに『上総屋』と言う旅館があったそうで
そこの娘さんと結婚したと言うのですが
稲毛飛行機練習所で同僚の大口豊吉氏も
この上総屋の娘さんと結婚しています!
これは伊藤氏と大口氏で姉と妹?
どっちを選ぶか争ったのでは?
そして大口氏はのちに上総屋の主人に
なってしまいます!
…と言う事は姉と大口氏が結婚し伊藤氏は妹と結婚したのではと想像できます!
『左、大口豊吉氏 右、白戸榮之助氏 』
そして大口氏は妻の尻に引かれっぱなしだったかどうかは?
皆さんの想像にお任せしますが…!?
どんな恋愛があったのか?知る良しに至りませんが
大口豊吉氏と伊藤音次郎氏は義兄弟って事になった訳です
行きなり、『豊吉兄さん』と呼ばなければならない立場になってしまい、
その光景を見れたならさぞかし笑えた事でしよう!
随分と話はそれてしまいました!m(__)m
習志野市袖ヶ浦5にある『袖ヶ浦第二児童遊園』の敷地内に
『旧 伊藤飛行機研究所滑走路跡』と言う
パネルが置いてありました!
元は滑走路となっていた海岸でしたが
現在は埋め立てられ宅地化され昔の面影すらありません
伊藤氏 は大正5年(1916年)伊藤式飛行機の名前に『恵美1型』と名付けています
誰もが婚約者、上総屋旅館の娘の名を取って名付けたと思いがちですが
伊藤音次郎氏は大阪は浪速区恵美須町の出身で
古里をこよなく愛した人だったのでしょう!
恵美須町の恵美を愛機の名前にしたんですね!
その恵美1型での初飛行は稲毛より東京上空を旋回し稲毛に戻ると言うコースでしたが
1月8日の500㍍上空は寒く、音次郎氏は
なんと!1合瓶の酒をチビリ 々 とやりながら操縦したと言うのです!
当時はまだ飲酒運転禁止の法律なんて無かったんですね!驚きました
そして、戦後、成田市に移り住んで牧場を始めますが
その時の牧場も恵美牧場と名付けています
『古里は遠きにありて名付ける物だったんですね!』(・・;)
そして驚いたのが成田空港建設に対して
一番最初に土地を提供に応じたのが伊藤音次郎氏
その空港B滑走路の側に東峯神社があります
その東峯神社の石碑の裏に航空神社と彫られいます
そして『皇紀二千六百年』とありました!
これは伊藤音次郎氏が昭和12年(1937年)
空難者を祀る為に研究所内に建立
戦後閉鎖された鷺沼海岸飛行場にあった神社を成田に入植の際
移転したものだと知った時はビックリ!
東峯神社とは伊藤音次郎氏が建立した神社だったのか~ァ!(◎-◎;)
誰もが成田空港の安全の神社としか思いませんが
実は習志野市鷺沼海岸に伊藤音次郎氏が建立した神社が
成田空港にある東峯神社であったとは考えも及ばない事でした!
私は過去7年間、成田空港で仕事に携わってきましたが
勤務中、何度も東峯神社の名前を無線で傍受したものでした!(-_-;)
昭和6年(1931年)伊藤飛行機研究所は
東亜飛行学校と帝国飛行学校に別れ
昭和12年(1937年)伊藤飛行機研究所は
伊藤飛行機(株)と改名
終戦と共に解散したと言われています
A 課長は伊藤飛行機研究所のすぐ側で育ち
格納庫にも出入りした事もあると聞きました!
知らない内に伊藤音次郎氏とすれ違って居たのかも知れませんね!
そして課長のお宅は高台にあって天気のいい日には縁側から富士山がみえるそうです!
そして幕張のビル群も……!
花火大会の時は縁側でユックリと花火が見れるそうです!
良い所にお住まいです!
お付きあいありがとうございました!
m(__)m
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8 ■Re:こんにちは^^
>ベンツ購入しましたブログさん
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