人類で始めて動力を使った飛行に成功したのは、1903年(明治36年)12月のライト兄弟であった。以来空への挑戦は相次ぎ、日本では早くも明治43年(1910)に東京代々木の錬兵場で初飛行が行われた。静岡市では大正6年(1917)米人飛行家による曲芸飛行が安東錬兵場で挙行され数万人が熱狂した。

伊藤飛行機研究所の練習生
伊藤飛行機研究所の練習生(左端は青島)


静岡県のパイロットの草分けの一人、青島次郎(1897〜1949)は、大正4年飛行機好きが嵩じて親らの反対をおしきって故郷静岡市を後に上京、苦難の末幸運にも日本初の民間飛行場・伊藤飛行機研究所(千葉・稲毛海岸)に工員として入った。

授業料を払って操縦訓練を受ける練習生と違い、青島は働きながら学び、それでも4年半後に三等操縦士免状を取得し、当時100名に満たなかったパイロットの仲間入りをした。

故郷静岡に帰った青島は資金不足で飛行機が作れないため、友人らが後援会を結成して資金を集め青島飛行機研究所を設立し、ようやく飛行機が完成した。

青島飛行士と静岡第1号機
青島飛行士と静岡第1号機


大正13年10月31日「静岡号」と命名されたニューポール機は安東錬兵場でデモンストレーション飛行を披露した。

この日は雲が低く垂れ込め小雨がぱらついたが、空が明るくなった午前10時青島飛行士は少年1人を同乗させ離陸した。

そして上空2〜300mの低空飛行を繰り返し宣伝ビラを撒布し、つめかけた約1万5千人の観衆を喜ばしたと当時の新聞は伝えている。

翌日のデモンストレーション飛行中、エンジンが不調になり着陸しようとしたところ機体は電線に引っかかり田圃に墜落し大破したが、青島飛行士と同乗者は、3週間ほどの負傷ですんだ。



青島は再び賛助金を募って静岡第2号機を獲得することが出来た。

静岡2号機と新装の格納庫(大正14年1月)
静岡2号機と新装の格納庫(大正14年1月)


大正14年8月、青島飛行士は静岡第2号機を駆って静岡県安倍郡俵沢地区を訪問した。この時地元では安倍川河原に臨時の滑走路を作って準備したが、飛行機の大きさが理解できず自動車が通れる程の幅しかなかったところから、青島飛行士は着陸に苦労したという。

新聞報道によれば、この飛行は美和村、玉川村、大河内村の在郷軍人会と青年団が主催したもので、小学生、村民1万余人が河原を埋め尽くしたという。

俵沢に降りたアプロ機と青島(右側)
俵沢に降りたアプロ機と青島(右側)


だが青島は、わずかな年月の後、青島飛行機研究所の看板を下ろさざるを得なかった。仕事は宣伝ビラまき程度しかなく、時代はまだ飛行機を使った事業が成り立たなかったのである。

安東錬兵場の航空ページェント(昭和8年ごろ)
安東錬兵場の航空ページェント(昭和8年ごろ)
中央の背広姿が青島


後に青島は模型飛行機づくりで情熱を燃やし事業化に成功していった。


資料提供:(株)青島文化教材社
静岡市流通センター12-3
URL:http://www.aoshima-bk.co.jp/



 

 

東海道宇津ノ谷峠 時とともに変遷する道
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