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伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼、伊藤飛行場)跡地 [├空港]

  2012年7月 訪問 

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ここはマリオ・デ・ニ−ロさん に教えて頂いた場所です。 ありがとうございました。m(_ _)m

千葉県‎習志野市‎袖ケ浦‎5丁目‎16にある「袖ヶ浦第二児童遊園」。

ここに「旧伊藤飛行機研究所 滑走路跡」の説明版が設置されています。

旧伊藤飛行機研究所 滑走路跡(全文)
 伊藤飛行機研究所は、大正七年四月一日、鷺沼三丁目の旧千葉街道沿いに、伊藤音次郎氏によって開設されました。伊藤氏は、明治四十五年日本初の民間飛行機練習所を稲毛海岸に開いた奈良原男爵の弟子で、大正四年に独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設しましたが、大正六年九月の台風と高潮で施設が壊滅したため、翌年鷺沼海岸に再開しました。当時この辺は遠浅の海で、潮が引いたあとの干潟は格好の滑走路となり、この干潟を利用して約百五十名の飛行士が養成されました。昭和六年、研究所は飛行機製作部門の伊藤飛行機製作所、飛行士養成部門の東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれ、昭和二十年八月、第二次世界大戦終戦とともにすべて解散されました。大正四年の創設以来、製作された飛行機は五十四機、グライダーは十五機種二百余機でした。平成十八年三月 習志野市教育委員会

(説明版に出てくる「鷺沼三丁目」はここから200mほど北側にあります)

 

ここからの話は前記事「稲毛飛行場跡地」 の続きです。

奈良原氏が白戸操縦士以外に更にもう一人操縦士を育てようと考え、

練習場所として開設したのが1912年開場の稲毛飛行場でした。

この飛行場で練習を始めたのが、白戸操縦士、そして「もう一人」の人物、伊藤音次郎でした。

1913年、前記事の通り、奈良原は金策に行き詰まり(男爵を継がせるべく親戚からの強い反対もあったらしい)、

一時航空界から手を引きます。

そのため伊藤音次郎は1915年、独立して稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設します。

稲毛飛行場をそのまま使用しつつ機体設計、操縦士養成を行っていました。

余談ですが奈良原の一番弟子白戸はどうしたかといいますと、、

1916年12月に稲毛を離れ、現在の千葉市寒川新宿に白戸飛行機練習所を開設し、専ら飛行士の養成に努めました。

ところが1923年、2人の愛弟子が飛行機事故で相次いで命を落してしまいます。

白戸はその年のうちに航空界から引退してしまったのでした。

 

伊藤研究所創設から2年後の1917年9月、伊藤飛行機研究所と稲毛飛行場は台風と高潮で壊滅してしまいます。

そのため伊藤は、稲毛海岸から数キロ北側に位置する鷺沼海岸に新たな飛行場(津田沼飛行場)と研究所を設けることにしたのでした。

結局、伊藤の恩師奈良原が作った稲毛飛行場は僅か5年で壊滅してしまったということになります。

鷺沼海岸に居を移して活動を再開した伊藤でしたが、

優れた機体を次々製作し、懸賞飛行に優勝したり、多数の操縦士を養成しました。

製作した飛行機は50種以上、軍払い下げ機の改造27機種、滑空機の製作は15機種200機以上。

操縦訓練では200人近い人材を育てました。

奈良原の稲毛飛行場とその弟子伊藤の鷺沼飛行場、それぞれの飛行場を比較した場合、

伊藤が鷺沼海岸に居を移してからの方が活動の期間が長く、規模も大きいと思うのですが、

現在それぞれの跡地の様子はまったく正反対です。

伊藤の飛行場跡には2006年に習志野市の小さな説明版が設けられただけなのと対照的に、

伊藤は恩師が開設した飛行場跡地に非常に大きな碑を建て、貴重な松の木を移しています。

 

2014/8/3追記:アギラさんから情報頂きました。説明版にも出てくる東亜飛行場についてです。「習志野市史第4巻資料編(ⅲ)には東亞航空興業株式會社の1940年7月の広告がありました。そこには本社は東京市小石川區大塚上町20番地となっていました。(大塚上町は現在の文京区大塚5丁目or6丁目)関連はありませんが国産初の飛行機を明治時代に作った林田商会の場所まで(新宿区西五軒町12-10)歩いても20分位です。営業所と東亞航空技術員養成所は津田沼町鷺沼127番地となっていて操縦や整備だけでなく中国語も教えていたようです。 」

また、こんな情報も頂きました。「尚、奇しくも千葉毎日新聞1931年5月23日の記事にはオートジャイロの記事もありました。「滑走路を要さない直昇飛行機製作 奈良原男爵発明のオートヂャイロン器を津田沼伊藤民間飛行場で 津田沼町伊藤飛行機製作所にて目下奈良原男爵の発明に依る直昇飛行機 組立を急いで居るが、右はオートヂャイロンと言って従来の如く大面積の滑走場に 滑走する必要なく機上翼上に十字形の相互に内面へ回転する装置のプロペラが備え付けられエンヂンを掛けタランクをふみローに入れるとエーヤ圧搾にて回転し直ちに機は直昇離陸するのであって、目下イスパノ三百馬力機に取付中であるが又た同機には是れも同男爵の妙案なる重心安定器を機体中心へ取付けてゐるので機体の動揺等を防ぎ昇降等にも非常に便よく是に依り墜落も防止されるとのことでおそくとも七月初めには試運転の初飛行を行う由である。」

更に「民間飛行學校練習所其他」{航空年鑑昭和六年)の中で、当飛行場に関して、「日本軽飛行機倶樂部(千葉縣千葉郡津田沼町 伊藤飛行場)」として登場しているそうです。アギラさん情報ありがとうございましたm(_ _)m

 

伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼飛行場)跡地:map 


      千葉県・伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼飛行場)跡地      

伊藤飛行機研究所滑走路(津田沼飛行場) データ
設置管理者:伊藤飛行機研究所
所在地:千葉県‎習志野市‎袖ケ浦‎5丁目‎16
座 標:N35°40′21″E140°01′55″(の辺りと思われる)

沿革
1912年     奈良原氏、稲毛海岸に民間飛行機練習所を開く
1915年01月 伊藤氏、奈良原氏から独立し稲毛海岸に伊藤飛行機研究所を創設
1917年09月 伊藤飛行機研究所、台風と高潮で壊滅
1918年04月 伊藤飛行機研究所、鷺沼海岸にて再開(津田沼飛行場)
1931年     伊藤飛行機製作所、東亜飛行学校・帝国飛行学校に分かれる
1945年08月 終戦と共に解散

関連サイト:
Wiki/伊藤音次郎   
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コメント(6)  トラックバック(0) 
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コメント 6

鹿児島のこういち

伊藤さんは恩師を大変、尊敬していたのでしょうね(o^-')b !
by 鹿児島のこういち (2012-09-19 11:05) 

an-kazu

ここは思いっきり住宅地の中ですが、
そういうトコロだったのですねφ(..)メモメモ
by an-kazu (2012-09-19 21:12) 

koume

碑が立っていたり、説明版がある場所は、地域の方も大切にしてういるのでは??
公園になってしまったけど、雑草だらけでどこがどこやら…って言うよりは、遥かに幸せなその後ですよね。
by koume (2012-09-19 22:34) 

miffy

こんな普通の公園が滑走路だったなんて教えてもらわなければわからないですね^^;
by miffy (2012-09-19 22:43) 

krause

これは知りませんでした!私は、幼少の頃に、このエリアに住んでいたことがあります。
by krause (2012-09-20 18:05) 

とり

皆様 コメント、nice! ありがとうございます。m(_ _)m

■鹿児島のこういちさん
オイラもそう思いました。
自分の飛行場はほったらかしで恩師の飛行場跡地にモニュメント建設ですからね~。

■an-kazuさん
確かに思いっきり住宅地ですね^^

■koumeさん
確かにそうですね~。
何もない場所が非常に多いですからこれは幸せなのだと思います。

■miffyさん
確かにそうですね~。
面影はまったくないです。

■krauseさん
ご無沙汰しております。
こちらにお住まいでしたか!
場所がずっと特定できなくて、マリオさんに教えてもらって知った場所です。
by とり (2012-09-21 06:59) 

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