「全ての人間は生まれながらにして知ることを欲する」
言わずと知れず、
TV番組「トリビアの泉」のオープニングを飾る一言です。
誰しも、こんなの当たり前じゃないか、と思っていると感じますが、
じっくり考えたことはありますか?
1.「知る」本質
―――全てを知ることは、全てを許すことである。
ある講義で印象に残った言葉なのですが、
誰が言ったか露知れず、しかし、とても印象に残る言葉です。
確かに、誤解をしている時は、
誤解をしているその事について、全てを知っているとは言えない。
断片のみを知って、それに輪をかけているのです。
誤解をしている人の経験上、自分を納得させるために、
あらゆる妄想を駆り立てます。
人は傷つくのを恐れるため、あらかじめ傷ついた時の想像をする、
つまり、悪い方に理解しがちです。
誰だって傷つくのは怖い。
ですが、真実を知らない限り、
その誤解の迷路から脱することはできないのです。
全てを理解した時、初めて、
ああ、そうだったのか、と納得することができる。
その納得こそが、許すことにつながります。
ですから私たちは、
あらゆる誤解を納得に結び付けるまで、
「知る」ことを欲するのです。
2.「欲求」の本質
心理学者ジグムント・フロイトはこう定義しています。
人間のあらゆる行動は、
二つの動機から発する。
―――すなわち、性の衝動と、偉くなりたい願望である。※1
なぜ性の衝動が人間の行動の動機になるの?
と聞かれても、
うーん、としか答えられない。
私たちは哺乳類の動物であり、
雄と雌で生殖行為をし、子孫を繁栄させる。
人間が生き残るためには必要不可欠なもので、
自然の摂理に沿った、当然の行動です。
どんな人でも、一度は胸の締め付けられる恋をしたことでしょう。
人間である以上、これは避けられないことです。
偉くなりたい願望。
これも私たちが人間である以上、
誰もが望むことです。
学校で勉強することも、
社会に出てお金を稼ぐことも、
趣味に没頭することも、
自分が偉くなりたい、多くの事を知りたい、
と思っているからこそ、
その行動を起こさせるのです。
もし、その偉くなりたい願望を無理に引っ込めて、
地位や名誉、お金もいらないとするならば、
たちどころに何もする気力がなくなり、
空虚な毎日を送る羽目になってしまいます。
(ただし、世の中を悟った上で何も欲するものがなくなった時、
つまり、欲することがなくなり、必要のないものを全て捨て去った時は別)
知りたいという欲望は私たちが生きていく上で、
常に念頭にあり、それに突き動かされています。
※1参考文献
1999 D・カーネギー 「人を動かす」 訳:山口博 発行:創元社
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