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2006年9月26日(火曜日)

ストラット

カテゴリー: - hseo @ 21時21分34秒

最近は、片持翼はむろん、練習機から翼支柱のないプラスチック機が当たり前になった。ASK21で育ち、ASK23でひとステージ上に上がるというように。その結果、翼支柱のあったことなど、若い人たちはみんな知らない。飛行機なら、ストラットは今でもセスナの売り物になっているのにね。

同志社大学の京田辺キャンパスに隣接して航空部の格納庫がある。
「どうして?」と言いたくなるほどにスペース大きく、使われていない床面積を使うだけで機体修理業者を営めそうである。この格納庫の奥の天井に、OBなど関係者総出でレストアされた萩原H-23C / JA2047と、霧ヶ峰ハトK-14が
吊されている。スペースの余裕が豊かな時空間をみせていて、なかなかいい風景である。

この前、同志社大学の大先輩である牧野鉄五郎さんのお宅におじゃまし、いろいろ昔の写真をスキャンさせていただいた。そのとき、JA2047のレストアのことが話題になった。
「さて、各部の作業が終わって、機体を組み上げようというとき、学生が『この棒、何ですか』と言うんです。ストラットが何だか分からない時代になったんですね・・・・」
「機体構造で一番大切なもの、いわば構造の哲学といえるものが認知されないのは、どこか問題がありますね。今のグライダー活動は、飛ばすことだけで精一杯になってしまうんですかねぇ」

この前、大利根の修理工場で修理職人三田さんと、宮原旭さんの写真集『男爵が愛した翼たち』を見ながら話をしていた。
「ほら、最初の『鷹』は翼の前桁と後桁から平行に2本のストラットがあるよね。それがいつか、機体開発が進むにつれて、胴体側を1点にまとめたVストラットになり、さらに1本だけのストラットになり、もっともっと努力してストラットそのものを無くして片持翼になっていく。そこに隠された設計者のひたすらさ、みたいなものを、今の人は分かってくれない。ウチの整備だって怪しいもの」

この人とこういう話をするのは楽しい。目がぐんぐん輝いてくるのが分かる。ぼくは返す。
「機体が分かるかどうかっていえば、そこが根幹だよなぁ。強度計算なんか出来ないけれど、平行2本からV、Vから1本、1本から片持ち、そこにある重さと強度と抵抗、そしてコストかなぁ、ストラットにかけたせめぎ合いは分かるような気がする。戦前の機体を見るにつけ、ストラットを1本抜くという飛躍に対し、設計者の直感、思い切りや度胸、決断といったものを感じるよ。むろん、理詰めで計算して決めていくんだろけど」

設計に対する直感についていえば、ぼくは自慢したいことがある。日大理工学部が卒業研究として人力飛行機を作っていた時代、新しい機体の製作が始まったというので、習志野に出かけた。そこで見せられたのは、1枚の主翼のリブ。コードが1,200mmもあるのに、バルサで作られたその重量は、想像を絶する7gでしかなかった。手の平に乗せた時の新鮮な感動が、これは何かあるぞと思わせ、その機体、NM-75が作られていく状況を、ずっと克明に写真で記録しようという気にさせたのだった。

2年後、あのゴサマーコンドルが人力飛行機として世界初の8の字飛行をやってのける数ヶ月前だが、NM-75は年末年始休暇の下総基地において、あの滑走路の端から端までを飛びきる実績を作ったのである。世界で初めて2,000mを越えるフライトをしたのだ。時のパイロットは、後にチロル号でウィーンから関宿に飛んできた加藤隆士さんだった。ぼくは、そのとき立ち会った唯一のジャーナリストであった。

あのリブの感動が取材を持続させた。持続すると、その機体がますます分かってくる。分かってくると、こいつは絶対何か成果を作るぞ、という確信になる。そしてそれが、そのとうりの実績となった。機体が分かるって、きっとこういうことなんだろうと、ぼくは自信を持った。

今の若者が、飛ぶことだけで精一杯になっているとすると、こういう愉しみがあるだろうかと思う。
機体は外観じゃない。構造であり、翼型であり、そういう中身だ。
それが分かるから着陸が上手くなるかといえば、全く関係ないが、もし機体の中身を見て、設計した人がここで苦心したな、とか、ここで何かを思い切ったな、ということが見えてくると、それは案外世間を見る目に通じるものがあるように思う。
着陸が上手くなることが人生に寄与するか、物事が見えることが寄与するか、といえば、それはやはり普遍的な意味で後者のような気がする。

しかし現代のプラスチック機は、プレーンにしてソフィスティケートされ、なかなかそのための表情を見せてくれない。
ビンテージ・グライダー・ラリーや機体修理工場に通って、ストラットのあるような、古典的な、鋼管羽布張りや全木製の機体を見ることに親しむことは、例えば今でも船員教育に帆船が使われることと、同じ意義があるのではないかと思う。
翼支柱は、奥深い滑空教育の象徴といえまいか。


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