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【首都スポ】

明学大・難波新監督 創部131年の名門再建へ

2016年3月24日 紙面から

首都大学2部リーグ戦で1部昇格を目指す明治学院大の難波貴司新監督=横浜市戸塚区で(小原栄二撮影)

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 創部131年の明治学院大野球部は4月開幕の春季リーグ戦から、難波貴司新監督(50)が指揮を執る。父は元巨人内野手で、自身も東海大、日本通運でプレー、都市対抗準優勝にも貢献。化粧品販売会社の役員を続けながら学生野球界に復帰する。チームは首都リーグ2部に低迷しているが目標はでっかく日本一。春季リーグ戦は4月2日に開幕する。(小原栄二)

 現役時代に26本塁打を打った“ミスター明治学院大”の森山正義前監督の退任にともなう次期監督候補として、OB会が大学側に推したのが難波さん。日大二高を率いて甲子園にも出場した上野雅宏OB会長は「情熱のある、動ける人を探しました」と話す。

 化粧品販売会社社長だった難波さんは、社長だけを降りて役員のまま引き受けた。「社会人野球も経験しているし、いまも会社経営にたずさわっているので、スポーツを通じた人間づくりも含めて託されたと思っています」。堀越高から東海大に進み、日本通運でプレー。本拠地が浦和だったこともあって浦和学院も指導するなど野球にはずっと携わってきた。上野OB会長も日大二高監督だったころに、同じ東京の堀越の選手だった難波さんを知っていたという縁もあった。

 日本最古の大学野球チームといわれで、かつては首都大学リーグも制覇したが、2部低迷も長い。大学は「明学スポーツを強くするプロジェクト」として9つの強化クラブを指定して、野球部も森山監督のもとで2007年秋にいったん1部に復帰したが、1シーズンだけで逆戻りした。再建を託された難波監督は12月から指導を始めて約3カ月半。全員と面談し、紅白戦、オープン戦を繰り返して選手を見極めてきた。「高校ではほとんどの子が補欠。おとなしい子に根性野球をやらせようとしても無理があるし、それぞれのいいところを生かしていってやりたい。監督というより目線を下げて、いい仲間のつもりでやっている」。監督ではなく、ときに難波さんとも呼ばれる。

 難波監督の父は、元巨人内野手の難波昭二郎さん(故人)。長嶋茂雄・巨人終身名誉監督と同期でポジションも同じ。関西大でならし「東の長嶋、西の難波」と言われたが、巨人では出場機会に恵まれなかったが、その後レコード会社社長として大成功した。「私が生まれたときにはもう引退していました。ものごごろついたときは、硬式野球部がスタートしたばかりのデュプロで教えていました。厳しい人で、チームに預けている以上、野球はそこで教わるからと、生き方だけをしっかり教わりました」

 東海大で現役のころは1部で強かった明治学院大を見ている。「1部に上がることを目標にしていたのでは上がれない。だから日本一を目指している。神宮へ行くためには母校の東海大もやっつけないといけません」。グラウンドには照明もない、室内練習場もないが、監督も選手も情熱はある。「自分はずっと恵まれた環境でしか野球をやってませんが、この環境でも勝てるんだというのを見せたい。近い将来、必ず神宮に行けると思っています」。難波監督の挑戦が始まった。

 ◆野球部は創部131年 明治学院大の前身は、江戸時代、文久年間の1863年に横浜で創立した英語塾「ヘボン塾」。明治時代にベースボールが日本に伝わったころから「校戯」とし、ベースボール部は1885年にでき初代主将は白洲文平(白洲次郎の父)で、日本で最初にキャッチャーミットを使ったといわれる。1951年に東都大学野球連盟に加盟し、64年に首都大学連盟発足とともに加盟。70年春、74年春にリーグ優勝した。ことしは学校創立153周年で、野球部は131年となる。

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