2016-03-24

緊急避難薬を巡る議論について、殴り書き

一部のラディカルフミニストの人々がピル緊急避難薬を蛇蝎のように嫌う背景には、「ピルは女による、有害でありながら受容を強制される男の性欲に対する『譲歩』」「コンドームをつけさせることは、男への、女による影なる支配力の行使」という意識があるのではないかと思う。ここには、「抑圧者」としての「男」へのマウント意識はあっても、「『産む』ことも『性を謳歌する』ことも、万人に与えられた権利であり、主体的に選択することが可能である」という意識はない。のこれは、リプロダクティブ・ヘルスライツの整備に反対する保守層の人々は、女性人生に対する主体的な選択を行うことを、「ふしだらである」として忌み嫌うかたちで、その権利を奪おうとする。

性教育の不徹底と、不完全な避妊方法である"コンドーム教"の盲信は、避妊の責を男性のみに背負わせる。「産む」ことが主体的選択の結果でなく、男性側が「産ませる」こともまた、コントロールを奪われている。失敗などの事故によって「産ませた」場合でも、男は「責任を取ら」ねばならない。合意とは無関係に。

この構図は、現在日本社会における所謂ラディカル・フェミニズム保守層対立が、本質において「同じ世界観の内部でマウントを取り合っているに過ぎない」のだ、という事実を思い起こさせる。ラディカル・フェミニズムの主張は、敗戦と高度成長によって闇に追い遣られた「影なる支配者」としての女の復権に等しい。産み増やす機械である女と、労働し金を稼ぐ機械である男と、どちらがえらいのか、どちらが尊重されるべきか。ミソジニールーツとして保守的な男女関係に固執する人々が女性社会進出忌避するのは、このマウンティング合戦において、最終的には「労働が可能であり、子供を産める」女に男は勝てないからに他ならない。日本における家制度は、男尊女卑の見掛けを取りながら、「男の欲望肯定し、生理的に充足させ、てのひらで転がし、そして扱き使う」女の、影なる支配によって成り立つ。そこで生みだされる労働力構成員を吸い上げてきたのが、それぞれの時代における「社会」だ。その強制力空気のように蔓延する。保守的な男女観に固執する限り、彼らは、抑圧から、どこまで行っても逃れ得ない。その事実を、このところネットで頻発する「アンチフェミニズム」の趨勢象徴しているように思う。

リプロダクティブ・ヘルスライツへの問題提起は、女が生殖への主体性を手にする運動だ。しかし、同時に、同時に、男が「自らの意思で」生殖に、もっと言えば異性との利害を伴った関係性に踏み込んでゆくことを可能にする過程でもある。そのとき、男は「働かなければ価値のない生き物」ではない(そして、これは、労働自己表現を見出す男の価値が下がることを意味しない。出産育児労働を天秤に掛けるとき労働を選択する女性ばかりではないからだ)。

近代化された社会において、「生殖」を前提とした異性関係は、双方の利害の一致の下にしか行われない。一般に、「金のない男」が、若い女と恋愛できないのは何故か。女が打算的だから、男に養われ、楽をしようと意図するから、ではない。現在日本社会においては、生殖のものコスト女性側に一任され、経済的負担男性の側に強く圧し掛かる。金のない男はその負担を負うことができない、と判断される。

「金のない男」、言い換えると、「単独家族を養う力が無い」と判断される男が異性と関係を結ぶためには、そのハンデを飛び越えるに足る利害調整力と、自分社会的立場を見極め、利害の一致する相手を見出す知識と経験、いわば市場観察力が必要となる。しかし、弱者男性問題が論じられるとき、男女関係における責任問題現実的側面に目が向けられることはほとんどない。

弱者男性と称される人々の世界に、「主体的に異性関係を構築する」という選択肢存在していない。その選択肢を得た個人は、もはや「弱者」ではないからだ。「男性としての名誉」も、トロフィーとしての女も、従い、勤労し、地位を獲得することによって、主体なき「社会」によって宛がわれるものからだ。しかし、社会全体の資本が不足し、そして、かつて公共財であった女が人権を獲得してしまったこの時代トロフィーを得るためには、生まれながらのステイタスと弛まぬ努力、そして大いなる運が必要となる。挙句、双方が主体的選択と責任意識放棄して「規範」によってマウントを取り合う男女関係においては、トロフィーを獲得しても、幸福になれるとは限らない。抑圧によって維持される家族関係において、抑圧は世代を引き継ぐ形で再生産される。

セックスが「男女の問題」ではなく、「主体的な二者間の問題であるとき生殖に関与する両者は、二人の協力者となる。コンドーム代表される男性側のアクションとしての、コンドーム代表される避妊手段使用然り、女性側のアクションとしてのピルやIUDの使用然り、リスクヘッジとしての緊急避難薬の存在然り、性病検査の徹底然り。どれも力関係や性規範によって強制されるものではなく、互いの身体を気遣い関係性の帰着を見据えた上で適切な手段を選択することで、初めて、生殖に参加する両者による「主体的生殖の選択」は可能となる。その上で、生殖に前向きな人々が、意思以外の諸要因を理由に断念せざるを得ない状況を減らしてゆくこと、が、理想的な(あくまでも理想的な!)「少子化対策」と呼べる。このことは、シラク三原則が成果を挙げたことによって実証されている。

しかし、この「現実的側面に対して、現実的議論する」こと、そのものが、世間一部の人々には(蛇蝎のごとく!)忌避されている。フェミニストを名乗る、ミサンドリー支配された「女たち」と、家社会部族社会論理に連なる男女関係を信望する保守主義者の人々、女によって自らの居場所財産名誉を奪われたと盲信する「男たち」。インターネットにおける緊急避難薬を巡る議論への反応から見て取れる。彼らの主張を言い換えれば、パートナーシップを構築する二者が対話し、尊重し合うことを志向するというごく当たり前の事すらも人々から取り上げるべきだ、ということとなる。生殖主体的選択が一般化したとき、救われるのは"望まぬ妊娠をさせられた女性たち""中絶強制される女性たち"だけではない。男らしさ、として強制される規範適応できず、自尊心の欠損や経済的搾取に苦しむ男性もまた救われることになる。

にも関わらず、リプロダクティブ・ヘルスライツを巡る議論忌避され、遠ざけられる。問題提起を行えば、「フェミニストからも「保守主義者からも袋叩きにされる。この風潮は、そのまま、日本におけるフェミニズムリベラリズムの歪みの象徴であるように思われるのである

トラックバック - http://anond.hatelabo.jp/20160324143659

記事への反応(ブックマークコメント)