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「頑張れ」という無責任な言葉

「頑張れ」という言葉が嫌いだと言っていた人を知っている。複数人。なぜかと問うと、みんな同じように「具体性がなくて無責任な感じするから」とのこと。頑張れというなら何を頑張れば良いのか言えや、自分の発言に責任持てや、ということらしい。その複数人、みんなおなじくこういう理由から頑張れという言葉が嫌いだった。判を押したようにみんな同じ理由を述べるのは、自己啓発本に書いてあったちょっとイイ話と全校集会での校長先生のお話がモロ被りしてた、みたいな感じがある。なんかこれって誰か有名な人が言い出した有名な解釈なんだろうか。

自分自身はむしろその無責任さというか具体性の無さが好きだったりする。そもそも「頑張れ」って、誰かがその対象に注目しているからこそ出てくる言葉であるわけだし、誰かに注目されて投げやりだろうと適当だろうと無責任だろうととりあえず応援されてもらえることが嬉しい。あまり良い意味で注目されること無く後ろ指さされながら日陰で生きてきた人間だからこその発想なのかもしれない。普通の人なら注目されることはそこそこにあるので、注目されること自体にそんなに嬉しさは無くてもっと先のことを求めたくなってしまうものなのだろうか。

それにしても、そんな何気ない一言に責任を持たせようとするのが恐ろしい。どう言っていいかわからないけど、でもとにかく応援だけはしたいんだ!みたいな気持ちを持つことだってあるし、無責任な言葉の1つ2つあってもいいじゃないかと思う。責任なんて、生きていれば嫌というほど押し付けられる。

責任というものについて考えることがよくある。時と状況によって変わってくるものだけど、それらに自分はちゃんと対応できるのだろうかと不安になる。それらを負う事ができず、また負うのが嫌だったので無職という道に来たのだ。それでまた社会復帰をするのならば新たに何らかの責任を負っていくことになる。それらを果たせるのか、不安で仕方ない。大体責任を取れって言ったって、ごめんなさいで済むもんでもないし、どうすれば責任を取れるのかもよく分からない。それこそ時と状況によるんだろうけど。菓子折りを持ってお詫びに行くとかは責任を取るって感じじゃない。謝罪だ。今日び幼稚園児でもお菓子くらいじゃ許してはくれんだろうに。土下座でどうにかなるのなら喜んでする。床にめり込むくらいに土下座する。でもそれじゃダメなんだろうな。クビになるとかそんなんでいいのだろうか。むしろ厄介事から解放されるみたいな感じになるのでラッキーなくらいだ。物理的なクビをはねるというか、クビをくくるのはどうなんだろうか。また新たな問題が発生しそうだし、責任を負うべき問題も誰かが死ねば解決するわけじゃない。となるとやっぱりお金なのかな。ジュース買いたいけど130円のやつと150円のやつ、どっちにしようか…なんて悩むような状況の自分に、数千万とか数億単位払えって言われてもどうしようもない。そもそも稼ぐ能力無いからこちとら無職やってるっちゅうねん。多分そうなったら借金抱えたまま心が折れて首くくると思う。一番ありそうなのはとにかくメチャクチャに怒られ急かされて、本当にごめんなさいと平謝りしながら出来る限り早く当初の契約通りのこちらの責任を果たす、というのだろうか。それで上手く出来なくて無職になったようなものなので、またそうなった時にうまく出来るのかは不安で仕方ない。出来るだけそうならないように、そしていつかはそうなる日が来るのでそれでも持ちこたえられるように、色々画策はしているものの、やっぱり不安。そんなこんなで責任というものとそれをどう負うか、どう果たすか、とかそういうことを考えてると、ふと、「頑張れ」という言葉に責任を上乗せしたがっていた人たちのことを思い出す。

自分の言葉に責任を持てとはよく言われるが、そう一語一句に求められすぎるのもどうなんだろうと思う。何も言いたくなくなるし、だれとも接したくなくなる。そうすると、携帯も解約してLINEも使わず、ツイッターとブログでブツブツ妄言と屁理屈だけを吐きまくる捻じ曲がった人間が出来る。自分のことだ。変に責任にプレッシャーを感じて全力回避しようとすればゴミしか生まれない。

無責任な言葉があってもいいと思う自分が無責任なのかとも思う。あらゆるものが契約ベースで進んでいく中で、責任はどうしても発生するし、あとはそれをどう分担するかというのが諸々の問題の大きな部分になっているわけで、無責任さがあってもいいと思うような態度こそが、そういう世の中であるべきではない態度なのかもしれない、なんて思った。