文/辻田真佐憲(近現代史研究者)
劣化する「君が代」論争
国立大学の卒業式や入学式に関連して、再び「君が代」の扱いに注目が集まっている。これに呼応する形で、インターネット上でも「君が代」をめぐる議論が活発になりつつある。
だが、その議論の有り様は必ずしも健全なものではない。というのも、昨今ネット上で交わされる「君が代」に関する言説が、あまりにも乱暴だからだ。今日ほど「君が代」に関する議論が劣化した時代はほかにないだろう。
「君が代」を歌うか、歌わないか。問題はあまりに単純に二分化され、歌えば保守・愛国であり、歌わなければ左翼・反日であると即断される。そしてこの単純な白黒図式に基づき、「愛国者」を自任する者たちが、気に入らない相手に食って掛かる――。こうした光景は、SNS上でもはや珍しいものではなくなった。
しかも、驚くべきことに、この「愛国者」を自任する者たちの多くは、「君が代」の歴史や意味をロクに知らないのだ。「君が代」は、敵と味方を判別し、敵を吊るし上げるための単なる「踏み絵」と化しているのである。
「君が代」に関する議論は明治時代から続いてきたが、ここまで酷い状態に陥ったことはなかった。戦時下のほうがまだ「君が代」の意味が正しく理解されていたくらいだ。なぜ「君が代」に関する議論はかくも劣化してしまったのだろうか。