じぶんよりも若い人の言うことには、どうしても「良いね」って言葉で包んであげたくなる。
先日は定期的に開催しているごはん会。
フリーター最後のごはん会。
高校生、大学生、社会人、のべ20名以上が集まって、食べ飲みをしながらいつものように好きなようにお話をした。
みんなそれぞれに考えていることや、取り組んでいることを話してくれる。
そういうことを話すとき、みんなの顔はいつも大人びて見える。
高校生がこういう場所にいると、大学生以上の人がけっこう言う言葉がある。
「高校生だけど、大人だねえ」
ぼくもそう思う。
みんなそれぞれにしっかり考えていて、悩んでいて、前に進もうとしていて、楽しもうとしていて、何を言うでもなくてこちらが「恐れ入ります」とか言いそうになる。
あれ、この年の頃ってもっともっと幼くて、それほどいろんなことに考えをめぐらせたり悩んだりすることなんてなかったんじゃないかなあとか思う。
いや、でも、と思う。
そうじゃないんだろう。
ぼくらはやっぱり齢を重ねていくと、「じぶんよりも年下の人」を「教える対象」と考えるし、「育てる対象」と考える。
それはどうしてかって、きっとぼくらもそう扱われてきたからだと思う。
仕返し、でもないけど、あのときの大人のポジションは、いつかぼくの番が回ってきたらやるべきだと思うし、心のどこかでやりたいと思ってしまっている。
けれどそれは同時に、とても失礼なことなのだと思う。
相手を「教える対象」「育てる対象」とすることは、相手を「欠けた存在」とすることに近い。
最初から欠けている存在としてみると、欠けているところばかりを見ようとアラを探す。
さらに、考えているよりも相手がずっとずっとしっかりしているとびっくりして、余計に「こいつは一度鼻っ柱折っておく必要があるな」と意地の悪いことを思ってアラを探しまくって、結果的に「礼儀しっかりしろよ。世の中はもっと厳しいぞ」とかわけの分からないことを言ってなんとかかんとか鼻っ柱を折ろうとする情けない「大人」になってしまう。
そんな考え方しか持てなかった頃のぼくがいて、何がきっかけだったんだろうな、忘れてしまったけれども、「教える対象」「育てる対象」と見ることはやめた。
相手は「育てる対象」ではなくて。
相手は「育つ対象」なんだろうな。
だからそこには「あなたのためを思ってだからね」なんて余計なお節介なんていらなくて、鼻っ柱が折れるときなんて、きっと前に前に、あるいは上に上に伸びようとすればいつかはどこかで来てしまうのだと思う。
どっちかと言うと、ぼくら大人に必要なのは、そういう伸びようとする人たちがボキッと折れたとき、きちんとそばで「大丈夫か?」とケアを思いやってあげる気配りなのだ。
それから、年下の人の話を聞くとき、とくに注意するようになったのは、相手が何か面白いことを考えて言って来たとき、何か挑戦していることを言って来たときに、
「良いと思う」
って言わないこと。
「すごいねぇ」って言うようにしている。
「良いと思う」「良いね」って、なんだか評価してるようで偉そうだから。
年下に対してその言葉を言っているときのじぶんって
まるでじぶんが全てが分かってるかのような気持ちで言っていることに気づいた。
わたしはあなたの先が見えるけど、そんな私が見るとあなたのやり方は正しいよって。
何様だよって。
だから「すごい」って言う。「すげえ」って言う。
そりゃ若いからこそ、常識とか全無視でやったりとか考えたりとかしていて、はっきり言ってよくわかんないこととか、聞いていて「え」とか思うことあるけど、
わけがわからなかったり、あっけにとられるものを、それは思いつかなかった、斬新だってことで、「すごい」って。
ぼくは何事も、やること自体は全部100点だと思ってる。
誰しも「やったるで」って思うことは無条件でYesなのだ。
当たり外れの話とか、賛成反対の話とか、センスありとかナンセンスだとか、そういう「やることの内容」の話は、そのあとゆっくり伝えればいい。
そこをごっちゃにしてコメントすると、いままさに上に伸びようとする芽をボキッと折ってしまうことになる。
良い評価で包んでやることは、優しさのような気がする。
そして、実際包まれたほうも優しさを感じて、安心感をもつ。
けど、それはお互いに安心したいだけなんじゃないかなあ。
人生をかっぽしよう
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