昨今ではプロゲーマーが、テレビや書籍のようなメディアで紹介されることもあり、「ゲームを真剣に遊ぶ人間」という姿が、以前よりは随分と評価されやすい環境になったのかなと考えている。
もちろん、それはそれで素晴らしいのだが、このようなゲームが身近な存在へと変化する一方で、昔のゲームにあったドロッとした「アングラ感」とかヌメッとした「サブカル感」みたいな雰囲気は、随分と「浄化」されたように思う。
昨今のAAA級ゲームのUIは、まるでアップル社のアプリを思わせるおしゃれ感が漂っているし、小規模な至上で展開されるインディーズゲームですら、渋谷のデジタルサイネージで映しても遜色ないレベルの美麗なアートが広がっている。
血と臓物の香り、妙にべたついたUIは、今では骨董品同然のものになった。ゲームもゲーマーも、「浄化」されたということだろうか。
そう、「浄化」に適応できれば、それはそれで良い。事実、何年もの間ゲーセン通いと努力を重ねたウメハラ氏などは、今ではゲームを知らない人間からも評価される存在だ。私も何だかんだ、現代のゲームも楽しみ、そのレビューや考察をこの場で書き綴っている。
だが、私にとって、今のプロゲーマーより、「ゲーム」を体現し、存在感をアピールした存在といえば、「ネトゲ廃人」だった。
彼らはゲームの中でとりわけプレイ時間を要求するMMOやハック&スラッシュを好んでプレイし、学業や仕事を放り出し、1日何十時間も狂ったように遊び続ける人間。
私自身、色々なネットゲームをプレイした経験があるが、大なり小なり、「一体何時間遊び続けているのか」と疑問に思う伝説的なプレイヤーはいたものだ。
彼らの生態を恐れ、一般人からは「ボトラー」(意味はご自身で調べて頂きたい)といった言葉で揶揄されたネトゲ廃人は、今ではすっかり見かけることも減った。
ある種、ゲームのダーティーなイメージを代表していたネトゲ廃人は、どこへ消えてしまったのか。
ネトゲ廃人を見かけなくなった最大の理由は、彼らが拠点としていたMMOや、それに類する超大なコンテンツを抱えるタイトル自体が衰退したためだろう。
今でも『FF14』『Diablo 3』『PSO2』などの大規模タイトルはまだ人気があるものの、かつての栄光には遠く、それらのタイトルでさえコンテンツの量自体はかなりヌルくなったらしい。
結局、彼らはヤサごと「浄化」され、その多くは一般的なゲームに復帰したか、はたまたゲーム自体に冷めてしまったのだろう。では一方で、『狭き門』のアリサのように、心からゲームを愛し、実際に全てを捧げた人々はどこへ向かったのだろう。
恐らくは、ソーシャルゲームではないだろうか。昨今、とあるソシャゲが、そのあまりにあくどいビジネスから新聞沙汰にもなっていたが、彼らの重すぎる愛情を受け止められるのは、現代ではもうソシャゲくらいしかないのかもしれない。
プロゲーマーにせよネトゲ廃人にせよ、MMOにせよソシャゲにせよ、イメージの違いこそあれゲームには人をどこまで夢中にさせる、魅力と狂気が眠っている。
とは言え、ネトゲ廃人を含めた、かつてのゲームが持っていた「アングラ感」が浄化されたとしても、彼らの息遣いと経験は膨大なフィードバックとして現代のゲームを支え、彼らが貴重な人生を費やしたのも事実なのだ。
(e-Sportsと持ち上げられる『LoL』も、元はといえば有志のMODだし。)
これらが「浄化」のなかで当然に忘れ去られるのは、私としては少し惜しい。『マリオ』や『ゼルダ』のような古典的作品が評価され、プロゲーマーが大手を降って歩けるのなら、かつてのネトゲ廃人の姿もまた、評価されずとも思い出されることぐらいはあってもいいのではないか。
最後に、ソシャゲにハマった自身の心境を語った匿名のポストが大変興味深い。よければ読んで欲しい。
追)無課金で数年続けていたソシャゲをやめて分かった、ただ1つの事実