3月14日、15日の日銀金融政策決定会合で日銀は現状維持を決定した。筆者が注目したのは、決定会合後の記者会見で、黒田総裁が予想インフレ率について「このところ弱含んでいる」と指摘したことだ。
日銀が行っている「マイナス金利付き量的・質的金融緩和策」は、2%のインフレ目標を早期に達成するという意思を明確なコミットメント(約束)として示した上で、そのコミットメントを裏打ちするために「量」・「質」・「金利」の三つの側面を通じ大規模な金融緩和策に踏み込む、そのことによって予想インフレ率を上昇させること、長期金利の上昇を抑制することが目的である。
予想インフレ率、長期名目金利、予想実質長期金利との間には、次のような関係が成立している。
予想実質長期金利 = 長期名目金利 - 予想インフレ率
予想インフレ率が上昇し、長期金利の上昇を抑制すれば、上の式に基づいて長期金利から予想インフレ率を差し引いた予想実質長期金利は低下する。予想実質長期金利が低下すれば、様々な経路を通じて経済に刺激効果が及び、総需要(GDP)は拡大して現実の物価上昇率が上昇し、それが予想インフレ率の上昇にも寄与することになる。
逆にいえば、予想インフレ率が低下すれば、予想実質金利の低下は抑制されて、経済への刺激効果は及びにくくなる。そうなると、総需要は低迷して現実の物価上昇率の伸びは止まっていき、予想インフレ率の上昇も止まってしまうという悪循環に陥るということだ。
以上のように予想インフレ率の動向は、日銀が進める金融政策の核となるものである。黒田総裁が指摘するとおり予想インフレ率がこのところ弱含んでいることを放置すれば、日銀が掲げる「2%のインフレ目標」への重大な障害となりうる。以下、データに基づきながら検討してみることにしたい。
予想インフレ率、物価上昇率の推移
まず予想インフレ率と物価上昇率の動きについて確認しておこう。図表1は消費者物価指数(生鮮食品除く総合)、消費者物価指数(食料(酒類を除く)・エネルギーを除く総合)の前年比と、内閣府「消費動向調査」の家計による1年後の物価見通しの回答結果から計算した予想インフレ率の推移を示している。
図表1:消費水準指数の推移
図表1からは次の点を指摘できる。まず家計による予想インフレ率の動きをみると、2013年に入り予想インフレ率は大きく拡大した。これは政府・日銀による2%のインフレ目標の設定、デフレ脱却に積極的な黒田総裁をはじめとする執行部の交代、さらに「量的・質的金融緩和策」の決定・実行といった一連の金融政策が影響していると考えられる。
そして予想インフレ率の伸びが高まることで、消費者物価指数の伸びも上昇に転じていく。消費者物価指数(生鮮食品除く総合)の前年比は2013年5月にマイナスから脱してプラスに転換し、食料やエネルギー価格といった海外市況に左右される品目を除いた消費者物価指数(食料(酒類を除く)・エネルギーを除く総合)も2013年9月にはマイナスからプラスに転換、2014年2月には消費者物価指数(生鮮食品除く総合)の前年比は1.3%、消費者物価指数(食料(酒類を除く)・エネルギーを除く総合)の前年比は0.8%まで上昇する。
つまり、予想インフレ率の上昇が様々な経路を通じて経済を刺激した結果、現実の物価上昇率を押し上げ、物価上昇率の上昇が予想インフレ率の拡大にも影響するという好ましい流れが生じたということだ。
しかしこうした動きは2014年に入ると頓挫してしまう。図表1では消費者物価指数の伸びが2014年4月からジャンプしているが、これは5%から8%へと消費税率が高まったことによってモノの値段が上がり、それが物価を押し上げたことが原因である。またエネルギーを含む消費者物価指数(生鮮食品除く総合)の動きからは、消費税増税の影響で物価上昇率は一旦高まったものの、2014年7月以降エネルギー価格の下落を反映して、物価上昇率の伸びは低下していることもわかる。
消費税増税による物価への影響が完全に剥落した2015年5月以降(注1)、エネルギー価格を含む消費者物価指数(生鮮食品除く総合)の伸びはゼロ%近傍で推移した。そしてエネルギー価格を含まない消費者物価指数(食料(酒類除く)及びエネルギーを除く総合)の前年比は2015年9月にかけて0.9%まで高まるものの、その後、物価上昇率は横ばいから低下基調で推移している。
この間、予想インフレ率は2014年4月から6月にかけて減少し、その後、横ばいの動きとなり、2015年2月以降になると低下が続いている。つまり予想インフレ率と現実の物価上昇率が共に減少しているという関係が、図表1からは示唆されるのである。
(注1)2014年4月の消費税増税にあたり、ガス代や電気代については1カ月間の経過措置(増税は2014年5月から)がとられたため、2015年4月の消費者物価指数にも消費税増税による物価押し上げ効果は残存している。
原油安、消費税増税が予想インフレ率に与えた影響はどの程度か?
予想インフレ率の低下の背景には何が、どのように作用しているのだろうか。まず考えてみたいのが、現実の物価上昇率の変化が予想インフレ率に与えた影響についてだ。具体的には消費税増税による物価上昇が予想インフレ率に与えた影響と、原油価格の急落が予想インフレ率に与えた影響についてである。
この点を具体的に考えるため、予想インフレ率の指標として普通国債と物価連動国債(物価に連動して元本が増減する国債)の利回りの差から計算されるブレーク・イーブン・インフレ率(BEI:10年物利回りから計算)を用いて検討してみよう。
なおBEIは、図表1で取り上げた家計の予想インフレ率とは異なり、市場参加者が直面する予想インフレ率とみなすことができる。BEIを用いることの利点は、日次ベースでデータを収集することが可能であるために、日々の原油価格の動きが予想インフレ率にどのようなインパクトをもたらしているのかを精緻に検討することが可能なこと、米国でも同じ指標を用いることができるため、予想インフレ率と為替レートとの関係を考える際に有用である点があげられる。
一方で日本の物価連動国債は普通国債と比較して発行残高が極めて少ないため、普通国債と物価連動国債の利回りの差から計算されるBEIには流動性プレミアムが含まれており、実際の予想インフレ率を少なく見積もってしまっている可能性が高いという難点を抱えている。また、直近時点で利用可能なBEIは13年10月以降に発行された新物価連動債に基づく値である。2013年10月以前のBEIと直接比較することができない点も難点だと言えるだろう。
以上の点を考慮に入れながら検討してみよう。図表2はBEI(10年、新物価連動債に基づく)の変動要因を分解した結果である。黒い折れ線がBEIの推移を、緑色の棒グラフはBEIの変動のうち消費税増税による物価上昇の影響を示している(注2)。そして赤色の棒グラフがBEIの変動のうち、原油価格の影響を示している(注3)。さらに黄色の棒グラフが、BEIの変動から原油価格・消費税増税による変動を除いた動きを示している。
(注2)なお、図表1に記載した消費者物価指数前年比から、消費税増税による物価押し上げ分を除いた上で、予想インフレ率と物価上昇率とを比較すると、予想インフレ率の低下と(消費税増税を除いた)物価上昇率の低下がともに進んでいることがわかる。消費税増税を行うと総需要が低下することでデフレギャップが拡大し、そのことが物価上昇率を押し下げて予想インフレ率にマイナスの影響をもたらすとも考えられるが、本稿ではこうした影響を考慮していない。今後の検討課題である。
(注3)BEIと原油価格前年比の時差相関係数を計算したところ、ラグなしの場合が最大となったため、ラグを考慮せず推計の上で要因分解を行った。
図表2 原油価格・消費税増税がブレーク・イーブン・インフレ率(10年)に与えた影響
図表2からBEIの動きをみていくと、とくに2015年12月以降伸びは大きく低下して、2016年3月1日には0.23%まで急落している。そして消費税増税はBEIを0.18%ポイント程度押し上げ、原油安はBEIを0.15%から0.3%ポイント押し下げたことがわかる。つまり原油安が予想インフレ率の低下の主因であるとは言えないということだ。
そして、原油安や消費税増税による物価上昇は永遠に続くものではないことを念頭におくと、BEIの変動を考えるにあたり重要な点は、原油安や消費税増税による影響を除いたBEIの動き(黄色部分)であると言える。
図表2には原油安や消費税増税による影響を除いたBEIの動き(黄色部分)の平均値を点線で示しているが、2013年10月から2016年3月1日までの平均値は1.06%である。これは原油安や消費税増税といった影響を除いたBEIの基調的な動きが1%程度であることを意味する。原油安や消費税増税による影響を除いたBEI は、2015年半ばまでは平均値をやや上ぶれる形で推移していたものの、2015年12月以降に急落して2016年3月1日時点では0.39%と、平均値から0.67%ポイントも下ぶれてしまっている。繰り返しになるが、こうした急落は原油安といった一時的要因に基づくものではない。
つまり、こうしたBEIの急落は日銀の金融政策、すなわち2%のインフレ目標を早期に達成するという意思を明確なコミットメント(約束)として示した上で、そのコミットメントを裏打ちするために「量」・「質」・「金利」の三つの側面を通じ大規模な金融緩和策に踏み込むことで、予想インフレ率を上昇させるという金融政策そのものへの信認が、崩れつつある可能性が高まっていることを示唆しているのではないか。筆者の考察が正しいとすればきわめて由々しき事態と言わざるをえないだろう。
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