• BPnet
  • ビジネス
  • PC
  • IT
  • テクノロジー
  • 医療
  • 建設・不動産
  • TRENDY
  • WOMAN
  • ショッピング
  • 転職
  • ナショジオ
  • 日経電子版

印刷ページ

戦争で、変わった

 国立公文書館で「生まれた。育てた。―母子保健のあゆみ―」という展示会があった。

 「母子保健のあゆみ」は、明治時代に遡るのだが、明治時代初期、日本にやってきた多くの外国人が、日本の子育てを絶賛していたことをご存知だろうか。

 例えば、動物学者のエドワード.S.モースは、

「私は世界中に日本ほど赤ん坊に尽くす国はなく、また日本の赤ん坊ほどよい赤ん坊は世界中にないと確信する」

と大絶賛。それほどまでに、明治政府は「生まれてきた赤ん坊を、元気に育てる」ことに力を注いでいたのだ。

 明治7年には医師と産婆の業務が法的に区別され、西洋医学に基づいた本格的な産婆教育が展開されるようになった。単に「産ませる」だけではなく、生まれてからも、その命が大切に育まれていくような役割が産婆さんに与えられ、女性の専門職としての地位を獲得する。

 さらに、「元気に育てる」政策が強化されたのが20世紀初頭だ。日本の乳児死亡率が先進国の中でも高かったことで、「産まれてきた子どもを元気に育てよう! 国の生産力である子どもを、みんなで育てよう!」という動きが一層強まり、「子どもが健やかに育つには、母親も健康で元気でいられるようにしなければ」と、「母子保健」の礎ができたのである。

 1916年には、内務省に保健衛生調査会が設置。そこには森鴎外(森林太郎)の名前も記されている。1934年には「恩賜財団母子愛育会」が設立され、農村で「愛育班活動」を開始した。

 この頃の日本は、「子どもは国の生産力」という文字とは対極の、子どもと母親への温かいまなざしがあった。みんなの宝物。そんな空気を感じさせる資料が、いくつも展示されていたのだ。

保健衛生調査会のメンバーには森鴎外(森林太郎)の名前も

産めよ育てよ国のため…と記した「結婚十訓」

 ところが、である。太平洋戦争が始まり、空気は一変する。

 1941年に「人口政策確立要綱」が策定され、「出生数を5人」として、国が理想とする子どもの数が明言される。翌年には、「子どもと母親」に当てられていたスポットが、「結婚と出産」に移り、「おいおい、マジかよ~~」と唖然とする、「結婚十訓」なるものが政府から示されたのである。

右が「結婚十訓」

【結婚十訓】
一.一生の伴侶として信頼できる人を選びましょう
二.心身共に健康な人を選びましょう
三.お互いに健康証明書を交換しましょう
四.悪い遺伝のない人を選びましょう
五.近親結婚は成るべく避けましょう
六.成るべく早く結婚しましょう
七.迷信や因習に捉われないこと
八.父母長上の意見を尊重しなさい
九.式は質素に届けはすぐに
十.産めよ育てよ国のため


バックナンバー>>一覧

コメント

※記事への投票、並びにコメントの書き込みは、「ログイン」後にお願いいたします。

参考度
お薦め度
投票結果

コメントを書く

コメント[0件]

ビジネストレンド>>一覧はこちら

記事を探す

注目のビジネストレンド>>一覧はこちら

読みましたか~読者注目の記事