↑画像:2016年桜シリーズ1 松井玲奈 本日<2016年3月21日>、東京で桜が開花しました!
(1)3月20日に東京メトロ霞ヶ関駅で慰霊式を挙行するのは、「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の真相を隠蔽する為ではないか?
今年も3月20日に「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の慰霊式が東京メトロ霞ヶ関駅で挙行された。
TBSニュースバードや NHK総合では、「現場となった霞ヶ関駅」と言う言い方をしていた。この言い方は間違いではないだろう。だけど、この言い方をいくつかの放送局がして、何 より毎年霞ヶ関駅で慰霊式を挙行する事により、多くの人々は霞ヶ関駅が1番たくさんの被害者を出して1番悲惨な状況だったと誤解するようになっていないだ ろうか。
実は、地下鉄サリン事件で最も多くの被害者を出したのは、東京都中央区にある日比谷線の築地駅です!http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Tokyo/Info/ChikatetsuSarin.html 築地駅は、後述する聖路加国際病院の最寄り駅です。
私には、3月20日に東京メトロ霞ヶ関駅で慰霊式を挙行するのは、「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の真相を隠蔽する為のように思えてならない。
(2)営団地下鉄<当時>霞ヶ関駅
オウムは強制捜査を妨害するために、警察庁のある霞ヶ関に通勤する警察幹部を狙って地下鉄にサリンを撒き、捜査を撹乱し、その間に証拠隠滅を狙っていたと言われている。
1995年3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。霞ヶ関の官公庁の公務員は、通常は午前9時30分頃に出勤すること が多い<えっ、そんなに遅いの! 羨ましい!>。しかし、月曜日だけは朝早くに朝礼があるところが多く、8時という早い時間を狙ったのはそういう官公庁の 内部を知っている者が犯人の中にいたからではないかと推測されている。
霞ヶ関の官公庁の公務員、取り分け、霞ヶ関に通勤する警察幹部を狙ったと言う点に着目すれば、確かに霞ヶ関駅は象徴的な駅には違いない。
(3)地下鉄霞ケ関駅から採取した毒物が入っているとされる容器を運び出す警視庁科学捜査研究所の職員が笑顔なのはなぜか?
↑画像:地下鉄霞ケ関駅から採取した毒物が入っているとされる容器を運び出す笑顔の警視庁科学捜査研究所の職員 1995年3月20日、東京・千代田区
多くの人々が倒れている状況で、多くの人々が倒れている状況の原因となった毒物が入っているとされる容器を運び出す時、笑顔でいられるものだろうか? 常識的に考えれば、笑顔は消え失せ緊張感に満ちあふれているのではないかと思われる。 それなのに、このリラックス感たっぷりの警視庁科学捜査研究所の職員の笑顔はいったい何を意味するのだろうか? もしかしたら、中には毒物など入っていないのではないだろうか。笑顔の警視庁科学捜査研究所の職員は芝居を演じているのではないだろうか。 もっと踏み込んで書けば、自分達の計画が決行されている事に無上の喜びを感じているようにも見える。(4)地下鉄サリン事件で日比谷線が最も多くの犠牲者を出したのはなぜか?
地下鉄サリン事件のターゲットにされたのは、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内だった。
↑画像 東京地下鉄路線図 1995年当時
地下鉄サリン事件で13名の方々が逝去された。その中で何と10名が日比谷線利用者であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6 その中で北千住7時43分発の日比谷線中目黒方面行きが8名の死者を出している。なぜ、突出して死者数が多いのか?
北千住発日比谷線は散布役の林泰男(現在は小池泰男)と送迎役の杉本繁郎が担当したとされている。
他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林は3パックを携帯した。また、3パックの内1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリン が染み出ていた。彼は北千住7時43分発の電車の3号車に上野駅から乗車した。林は秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布したとされてい る。
以上がWikipediaなどから判る突出して死者数が多い理由である。
事件発生後の8時10分、日比谷線は複 数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅と神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。次第に被害が拡大したため営団は8時35分、 日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線・丸ノ内線では不審物・刺激臭の通報のみで、更に被害発生の確認 が遅かったため、運行が継続された。
(5)なぜ林泰男だけ3パックを携帯し秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けたのか?
それは最初から実に広い収容スペースがある東京築地の聖路加国際病院に多数の犠牲者を収容するつもりだったからではないだろうか。 秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けたというのは絶妙である。こうする事により、悲惨な状況のピークになる頃、電車は聖路加国際病院の最寄り駅・築地駅に到着する。(6)東京二十三区内で戦時中に全く爆撃がなく無被害だったエリア
ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近。
アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院付近。日本正教会のニコライ堂(東京復活大聖堂)と関連施設。
丸の内の第一生命館や明治生命館などがある地域などは、戦後統治に米軍が駐屯するために残してました。
金持ちが住む白金<しろがね>地区、谷中・根津・千駄木地区など。
空襲の標的になったのは主に貧乏な人々が多く住む下町で、ここは人口が密集しているために爆撃の効果が高い上、何より産業・経済の集積地だった。
1995年の阪神淡路大震災も、貧乏な人々が多く住むエリアが壊滅的な打撃を受けた。 多くの人々が不幸に陥る出来事があった際、金持ちは助かっている例が多い。(7)聖路加国際病院
地下鉄サリン事件の時、大半の患者が運ばれた聖路加国際病院は、元米軍極東中央病院です。病院名は、使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来している。
1874年、東京・築地の外国人居留地に、スコットランド一致長老教会の宣教医師ヘンリー・フォールズが健康社築地病院を設立した。その後、築地近辺で転々と場所を移動した。
フォールズはこの地でエドワード・モースの弥生町遺跡発掘に協力する中で、土器に残された指紋に興味を持ち、指紋捜査法を発見した。
エドワード・モースと申す人は、大森貝塚を発掘した事で有名です。
1902年: フォールズが帰国した後荒廃していた築地病院の建物を、米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り、聖路加病院とした。ロシア革命が起きた1917年に、聖路加国際病院と改称した。
1923年、関東大震災で病院が倒壊、入院患者80名を青山学院の寄宿舎に移送、後に仮設病院を建設して診療を継続した。新病院が完成後は、仮設病院は管理棟や看護専門学校(後の聖路加看護大学)として使用された。
1933年、
皇室・米国聖公会・米赤十字などの寄付により新病院再建(現在の旧館)された。
1943年、政府に「大東亜中央病院」という名称に改名させられた。特高警察がスパイの嫌疑で日野原重明氏や日野原氏の同僚を取り調べたり、特高警察が患者を装って病院に出入りし、「大東亜中央病院」を監視をしていた。
1945年:
当病院があることにより築地・明石町一帯はアメリカ軍機による東京大空襲の爆撃を免れた。
日本の敗戦後には旧称に復帰したが、日本を占領下においた連合国軍を構成する一員となったアメリカ軍に病院施設が接収されて米軍極東中央病院として使用さ れたため、現在の国立がんセンター中央病院がある場所に「聖路加築地分院」を開設して診療を行った。1955年、「本院」がアメリカ軍から返還され、現在 地に戻った。
(8)日野原重明 104年間の人生 PART1
↑画像 2015年11月1日実施「日野原重明先生 104歳 記念講演」のポスター
日野原重明氏は、1911年10月4日、山口県山口市湯田にある母の実家で生まれた。6日後の10月10日、 清で武昌新軍が蜂起した。世に言う「辛亥革命」が始まったのだ。
前年の1910年、メキシコ革命が始まっていた。メキシコ革命は、1877年以来メキシコ大統領の座にあったポルフィリオ・ディアス氏に対する反対運動として始まった。日野原重明氏が生まれた翌月11月、継続中のメキシコ革命で、農民派のサパタ氏が蜂起した。
日野原重明氏が生まれた日本は、中国やメキシコとは真逆の動きが進展していた。革命的な動きを弾圧する動きである。1910年に起きた大逆事件の裁判で幸徳秋水氏ら被告全24人に、大審院が死刑判決を下したのは1911年1月18日 であった。
さて、
7歳で洗礼を受けた日野原重明氏は、
731部隊の石井四郎が首席で卒業した京都帝国大学医学部を卒業後、
1941年に聖路加国際病院の内科医となった。1951年、聖路加国際病院内科医長に就任した。
1957年、
石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めた。(9)石橋湛山氏を首相の座から引きずり降ろしたのは誰か?
孫崎享(まごさきうける)氏の著書「アメリカに潰された政治家たち」で、
アメリカと戦った12人の政治家の一人として評価されているのが、石橋湛山氏である。 石橋湛山氏は、首相就任後すぐ、不審な病に倒れ辞職した。その後88歳まで生き、長生きであった。あの時の病はなんだったのか。薬物攻撃を受けたのではないかとも指摘されている。その説が正しいとすれば、
誰が薬物攻撃をしたのか? 石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めたのがクリスチャンの日野原重明氏ですので、日野原重明氏の可能性が高い。(10)よど号ハイジャック事件
1970年、日野原重明氏は、福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭い、韓国の金浦国際空港で解放された。
日本初のハイジャック事件ということもあり、
犯行グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」という犯行声明に対し、「ハイジャック」の意味を知らなかった日本人乗客の為に日野原重明氏は自ら手を挙げ、「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」と機内で説明した。ハイジャック中に犯人グループから人質へ本が提供されたが、応じたのは日野原だけで、『カラマーゾフの兄弟』を借りた。
日本初のハイジャック事件で、この驚くべき落ち着き。事前に日本初のハイジャック事件が起きる事を知っていなければ、これだけの落ち着きは示せないのではないだろうか。日野原氏以外は犯人グループから本を借りなかったと言う事実は、その時点において、日野原氏以外の搭乗客は不安におののいていた事を示すと思われる。
また、
その事実は、日野原氏がよど号をハイジャックしたグループと通じていたのではないかという疑惑を深める。 犯人グループは赤軍派を名乗り、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に亡命する意思を示して同国に向かうよう要求し、よど号は福岡と大韓民国(韓国)の金浦国際空港を経由して朝鮮民主主義人民共和国の美林飛行場に到着した。
運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで解放されたものの、身代わりとなった運輸政務次官山村新治郎氏と運航乗務員、犯人グループはハイジャックされた機で北朝鮮に向かい、運輸政務次官山村氏と運航乗務員はその後帰国したものの、犯人グループは亡命した。
なお、犯人グループが亡命した北朝鮮が、本日<2016年3月21日>午後3時19~4時5分(日本時間同)の間に、咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)南方から日本海に向けて短距離の飛翔体(ひしょうたい)を5発発射したと明らかにした。
http://news.yahoo.co.jp/pickup/6195226(11)日野原重明氏 104年間の人生 PART2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%87%8E%E5%8E%9F%E9%87%8D%E6%98%8E 1974年、聖路加国際病院を定年退職。聖路加看護大学学長(第4代)に就任(1998年迄)。
1992年に聖路加国際病院院長に就任(1996年迄)。 無給で院長を務めた。
1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きた。院長であった日野原氏の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを 無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者を最少限に抑えることに繋がったと評価されてい る。この病院の対応は、ペンタゴンをはじめ諸外国からも絶賛された。
http://uchidat.com/weekly/2004/43.pdf 1996年、財団法人聖路加国際病院理事長に就任、院長を退任し聖路加国際病院名誉院長となった。
日野原氏は日本で最初に人間ドックを開設、早くから予防医学の重要性を説き終末期医療の普及にも尽くした。従来は「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」に改めたのも彼である。
2001年12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げた。高齢者の希望の星的存在となっている。
保守思想を持ち、皇室を崇敬。度々皇室行事に招かれている。新日本国憲法に勤皇奉仕義務を明記するよう求めている。一方で、朝日新聞で執筆中のコラム「95歳の私 あるがまま行く」において、君が代に代わる新国歌の制定も提案した。
君が代に代わる新国歌の制定、私は賛成です。それにしても「勤皇奉仕義務」ですか、日野原さんってウルトラ右翼なんですね。「勤皇奉仕義務」、私は反対です。
でも、もしかしたら、日野原さんは似非右翼かもしれない。私は高天原山事変の首謀者と指摘されている中曽根康弘氏も似非右翼ではないかと考えている。
日野原さんが似非右翼ではないかと考える理由は、よど号ハイジャック事件の犯人グループ<赤軍派>と通じている可能性があるからだ。
さて、日野原氏は100歳を超えてなおスケジュールは2、3年先まで一杯という多忙な日々を送っている。乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、 日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたと言う。日野原氏は少なくとも 110歳まで現役を続けることを目標にしていると語っている。
日野原重明氏は、日本の医師・医学博士であり、現在、一般財団法人聖路加 国際メディカルセンター理事長、聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長、一般財団 法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長などを務める。
(12)よど号ハイジャック事件のその後 【証拠湮滅】山村新治郎氏の娘は操られていたのか?
さて、よど号ハイジャック事件で身代わりとなった運輸政務次官<当時>山村新治郎氏は、宮崎勤事件が世間を騒がせていた1989年6月3日成立の宇野内閣(約2ヶ月の短命内閣)で運輸大臣を務めました。(同年8月10日まで=宮崎勤の自宅が捜索された日)
http://ccplus.exblog.jp/13196174/ 1992年、山村新治郎氏は、自民党訪朝団団長として北朝鮮への訪問を翌日に控えた4月12日、自宅にて精神疾患を患った24歳の次女に出刃包丁で刺され殺害された。当時健在であった母の目の前での惨劇であった。
北朝鮮に訪問の際には22年ぶりによど号グループ首謀者の田宮高麿<社会主義者なのに貴族のような名前、まあ、本人が名付けたわけではないのですが。>と会う予定であった。
日本国憲法下で他殺された現職国会議員としては、浅沼稲次郎氏に続いて二人目(丹羽兵助氏を他殺に含めると三人目)。次女は引きこもりがちであったと言うが、茶道教室に通う等をしていた。
また、よど号事件の時、次女は2歳であったが、身代わり人質で有名になった新治郎氏を羽田空港で出迎えた。新治郎氏の選挙をよく手伝っていたことから、後援会関係者からは「次女を後継者に」と言う声も挙がる一方で、次女の精神疾患に気付く者はいなかったという。
次女は心神喪失により責任能力なしと判断され不起訴となるが、4年後に自殺している。
次女が自殺した前年、つまり、地下鉄サリン事件が起きた1995年の11月30日、田宮高麿が平壌で死亡したとされた。当局は死因を心臓麻痺と発表した。 しかし、前日の29日に赤軍派議長だった塩見孝也が田宮に平壌駅で見送られており、死亡日前日まで田宮が元気であったことが確認されていることから、拉致 事件を追っているジャーナリストの多くが田宮の死に疑問を呈している。
(13)地下鉄サリン事件が起きる事を予期していたかのような聖路加国際病院の新病棟建設
日野原氏は東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年に完成させた。
この備えは1995年の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として機能した。
↑画像 運び込まれた聖路加国際病院の廊下で治療を待つ被害者たち (東京都中央区の同病院で) 1995年03月20日
(8)で記した通り、日野原氏は、1941年に聖路加国際病院の内科医となって以来現在に至る迄、聖路加国際病院と関わっている。「東京大空襲の際に満足 な医療が出来なかった経験から」と主張なさるのなら、なぜもっと早く大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟の建設を提案なさらなかった のですか?
新病棟は、地下鉄サリン事件の3年前の1992年に完成した。(11)で記した通り、日野原氏は、その1992年に聖路加国際病院院長に就任し、地下鉄サリン事件が起きた翌年の1996年院長を退任した。
日野原氏は、地下鉄サリン事件が起きる事が判っていて、地下鉄サリン事件に対応できる新病棟を建設し、1995年3月20日の地下鉄サリン事件に対応した翌年、使命を終えたと思い院長を退任したのではないだろうか。 事前に判っていれば、当日に入るかもしれかった手術は、他の日にずらす事も可能だし、当日、出勤する医師や看護師の数も事前にある程度増やしておく事が可能だっただろう。何しろ、日野原氏は、院長なのだから。
↓動画 、℃-ute のリーダー、およびハロー!プロジェクトの5代目リーダー 矢島舞美