前回に続き、CISTECジャーナルの昨年11月号に寄稿した文章です。
中国と北朝鮮、近隣の共産圏2国が仕掛ける技術盗用手法に焦点をあててみました。
今回は北朝鮮編です。
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科協本部にガサ
ハイテク技術はハイテク技術でも、そのほとんどが軍事転用可能な先端軍事技術情報と物資の入手を目的とするのが、北朝鮮の産業スパイ活動である。
北朝鮮の在日公民団体であり、朝鮮労働党の日本支部でもある朝鮮総連の傘下には、在日朝鮮人科学者が集まる頭脳集団である「科協(在日本朝鮮人科学技術協会、KAST)がある。日本の公安当局からは、「大量破壊兵器をはじめ北朝鮮の軍事産業を支える産業スパイ集団」と見做されてきた。
科協の名がにわかにクローズアップされたのは、2005年10月のこと。科協関連企業2社が摘発され、その余波として科協本体にも捜査の手が伸びたときである。
10月14日、無許可で医薬品を製造販売したとして、医薬品会社エムジー製薬社長玄丞培(69)、インターネット関連会社メディア・コマース・リボリューション社長・鄭明洙(53)の両容疑者が薬事法違反で逮捕された。医薬品の無許可販売、未承認医薬品の広告宣伝を行なっていた、との容疑である。
拉致事件と関連?
警視庁公安部の強制捜査は、東京・文京区の科協本部ほか11カ所に及び、医薬品原料や多数の資料が押収された。長年にわたって聖域視されてきた科協の心臓部に、公安部が初めて踏み込んだ瞬間だった。
しかし以前から科協の存在に注目してきた筆者らは、ガサ入れ直後からこれが単なる薬事法違反の捜査ではないと予想していた。警視庁公安部が、このとき押収した資料を密かに「宝の山」と呼んでいたからだ。
当初メディアを駆け巡ったのは、特定失踪者問題調査会が「北朝鮮に拉致された疑いが濃厚」とする藤田進さん失踪事件との関連だった。ガサ入れのあった11ヵ所のうち1つに、東京・足立区にある西新井病院の創設者である金萬有氏を記念した財団法人「金萬有科学振興会」(金萬有財団)が含まれていたからである。
じつはこの数ヵ月前、藤田失踪当時、西新井病院で運転手をしていたという男性から「自分が藤田さん拉致に加担した」とのタレこみがあったとの情報があり、新聞・テレビ等で、警視庁のガサ入れと藤田さん拉致事件に関係があるかのような報道がしきりに流れていた。
アメリカの圧力
しかし筆者らは、科協へのガサを「藤田さん拉致」と関連づける報道にも疑問を抱いていた。
そもそも玄、鄭両容疑者は科協副会長という重責にある。さらに、玄容疑者は在日朝鮮人科学者の育成に力を注ぐ金萬有財団の理事も兼ねていた。
一方で、当時すでに、アメリカ当局が、核をはじめとする北朝鮮の軍事開発疑惑の解明に本腰を入れ始めたようだとの情報が、在日米軍筋から流れていた。北朝鮮の軍事産業を支えてきた科協本部に捜査の手が伸び、その有力幹部が逮捕されたからには、いよいよ日本当局も、アメリカの圧力を無視できなくなったのではないか……。
この推論を裏づけるかのように、逮捕の6日後、アメリカで北朝鮮の大量殺戮兵器(WMD)に関連するニュースが流れた。10月21日、米財務省が、北朝鮮の8つの企業が米国内に保有する、あるいは今後保有するであろうすべての資産を凍結する、と発表したのだった。
8つの企業とは、海星貿易、朝鮮総合整備輸入、朝鮮国際化学合作、朝鮮光星貿易、朝鮮富強貿易、朝鮮光栄貿易、朝鮮蓮華機会合作、土城技術貿易の各社。これらの企業が、北朝鮮の大量殺戮兵器拡散を支援していた疑いがあるというのが、その理由だった。
その後、藤田さん失踪事件の捜査は何も進展せず、明らかになったのは、やはり科協関連企業と北朝鮮の大量破壊兵器開発に関する情報ばかりだった。
自衛隊の「秘」情報も北に……!?
そして2006年1月、科協から押収され資料の分析結果が一部マスコミに流れた。
〈在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)傘下の在日本朝鮮人科学技術協会(科協)=東京都文京区=が、陸上自衛隊の最新型地対空ミサイルシステムに関する研究開発段階のデータなどが記載された資料を入手していたことが23日、警察当局の調べで分かった。データはすでに北朝鮮に送られているとみられ、警察当局は資料の流出経路などについて捜査を進めている〉(産経新聞2006.1.24)
最新型地対空ミサイルシステムとは、「03式中距離地対空誘導弾システム」(略称=中SAM)を指す。領土に侵入してきた航空機などを打ち落とすために地上から発射されるミサイルだが、陸上自衛隊は、03年度からその最新システムの配備を進めていた。その開発データが科協を通じて北朝鮮に渡っていた疑いがあるという。
科協が入手した資料とは、三菱総合研究所が戦術弾道弾(TBM)への対処能力の性能などを検討するために作成していたシミュレーションソフトに関するもの。自衛隊法上の㊙案件に相当するもので、中SAMの展開・運用構想、要撃高度、要撃距離、援護範囲などに関する数値や、戦闘爆撃機に対する性能数値なども記載されていた。
孫請けシステム
このシステム開発には、三菱電機や三菱重工、東芝など国内の大手防衛関連企業が係わっていたが、三菱電機はこの研究を関連会社の三菱総合研究所に委託。そして同研究所は、その報告書作成業務の一部を孫受けのソフトウェア会社に委託していた。この会社が、昨年10月に逮捕された科協幹部2名が役員を務める、科協の関連企業だったのである。
防衛庁は、データの流出によってミサイルの運用に直接の影響はないとしているが、「長年に渡り、このような軍事情報を含む日本の重要機密が科協を通して北朝鮮に流れていたのは、間違いのない事実」(総連関係者)である。
警視庁による科協の強制捜査は、やはり藤田さん失踪事件の解明が目的ではなく、科協が収集する日本の軍事科学技術情報網の解明にあるのではないかとの見方が有力になってきた。
旧ソ連に匹敵するほどの知識
韓国科学技術政策院の李春根氏は、「(北朝鮮では)国内大学の水準が低かったため、外国留学生の活用がろくに行なわれていなかった。まず外国留学生の派遣先が、社会主義国家を中心に推進され、1960年代まではソ連に、80年代以降からは中国に極端に偏っていた。そのため、資本主義の先進国の発達した技術をきちんと導入できなかった」と述べている。
これまで北朝鮮は科学技術、なかでも軍事技術のほとんどを旧ソ連から吸収したと信じられてきた。しかし最近では、この李氏の報告以外にも、巷間いわれているほど旧ソ連の技術が北朝鮮の軍事技術に発展をもたらさなかったという主張が増えてきている。
たとえば、青山学院大学の木村光彦教授他の訳による『1959年の北朝鮮・ソ連科学技術協力に関する資料』は、科学技術知識が旧ソ連から北朝鮮へ一方的に流れたのではなく、双方向的であったという事実を指摘している。国内の技術水準が著しく劣っていた北朝鮮が、なぜ旧ソ連に匹敵するほどの、時には陵駕するほどの知識を持ちえたのか?
第一外国語は日本語
北朝鮮の科学技術、そして軍事産業は、科協の存在を抜きにしては語れない。
北朝鮮の科学技術を支えていたのは、日本から科協が送り続けた多数の文献と、科協のメンバーが日本と祖国を往還しながらもたらした膨大な量の科学技術知識だった。
ほとんどの文献は、朝鮮総連の直営出版社である「九月書房」を通じて日本語のまま送られていた。意外に思われるかもしれないが、北朝鮮の科学者や理工学系の学生の多くは日本語が読めるのだ。
九三年に北朝鮮から韓国に亡命した科学者で、朝鮮人民軍核化学防衛局に勤務していた李忠国氏によると、北朝鮮の理系大学の学生たちは日本やアメリカから持ち込まれた科学雑誌や書籍を自由に閲覧することができたという。
そしてこれらの文献を読むため、学生たちは外国語の習得に熱心だった。人気のある言語は日本語だったという。北朝鮮の自然科学分野では日本語が事実上の第一外国語であり、現在、北朝鮮国内で使用されているパソコンの多くには日本語のOSが搭載されている。
「科学者には祖国がある」
数十年にわたって祖国へ日本の学術文献、工作機械、設計図面、製品カタログを送ったことについては、3年ごとに開かれる科協の大会の、1995年学術報告会基調報告で次のように述べられている。
「この時期、科学技術書籍と資機材、見本品は、祖国の科学者、技術者には沙漠での泉のように貴重なものであった」
これは北朝鮮の科学技術がまさに「沙漠」のようなものであったことを意味する。やはり旧ソ連他の科学知識は北朝鮮の科学分野に大きな発展をもらすことはなかったのだ。そして、それを補っていたのが、日本からもたらされた最先端の科学技術情報だったのではないかという疑惑が、ますます濃厚になっている。
科協のスローガンに「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」とある。
他国人の愛国心を否定するつもりはないが、しかし彼らの「祖国」とは、我々の国に向けて弾道ミサイルを発射し、我々の同胞を多数拉致して連れ去った北朝鮮なのである。日本国の一員として、このような高度な知識を備えた頭脳集団が敵性国家の利益のため、日々国内で活動していることに戦慄を覚えずにはいられない。
物資調達を指揮
科協が祖国に送り続けたのは、科学文献だけではない。輸出規制品である戦略物資、とくに核・ミサイルなどの大量破壊兵器開発に転用可能な資材や、薬品なども大量に運び込んでいる。直接の貿易を行なうのは朝鮮総連系の商社だが、指示を下していたのは科協だった。
03年6月、ミサイル推進薬製造に用いられる粉砕機「ジェットミル」を不正輸出したとして、東京の「セイシン企業」が摘発された。購入を依頼したのは科協の幹部だった。
北朝鮮側で戦略物資を発注しているのは、「第二経済委員会」と呼ばれる軍事経済統括部門である。この統括部門が科協に指示を出し、科協がその内容を吟味したうえで総連系列の企業に物資購入を要請していた。
また冒頭の薬事法違反事件では、当初一部マスコミで、核施設内での実験や作業に欠かせない薬品であるヨウ素剤の不正輸出が疑われた。他にも、日本の通関行政の怠慢のため、燐酸エステル、灯油、トリブチル燐酸、ケロシンなど、核開発に必要な薬品類が複数種日本から流れていたが、これらの薬品購入にも科協の指示があったのではないかとは疑われ当然だった。
「日本原子物理学の父」は北朝鮮シンパ
北朝鮮の核開発において、科協の果たした役割は計り知れない。
そのことは(85年の組織改編後の)科協・初代会長が、日本の原子力研究の第一人者だった伏見康治博士の愛弟子であったことからも指摘できる。
2008年に99歳で亡くなった伏見康治は、大阪大学と名古屋大学の名誉教授を務めた自然科学界の長老だった。東大卒業後、1940年に大阪大学教授となり、戦後は一貫して日本の原子力工学をリードしてきた。
戦時中は理化学研究所と共同で濃縮ウランの研究に従事し、原子爆弾の開発にも取り組んでいた。過去には、日本学術会議会長や参議院議員(公明党)を務めたこともある。
その伏見博士が、いわゆる左翼で北朝鮮シンパだったということは、次の発言からも明らかだ。
「日本国内には、南も含めて朝鮮半島の方々が沢山活動している。南の方々との交流も今までは滞り勝ちだったが、金大中さんの太陽政策で非常に自由になってきた。北の方々の相当多くが、現に国内で活躍されておられる。その方々はひんぱんに祖国を往来しておられる。それなのに半世紀たったいまでも国交が回復していないのはどういうわけか。遠いアフリカの発展途上国とさえ色々国交があるというのに。昔から、陰にせよ陽にせよ、深い交わりのあるすぐお隣の方々と、どうして距離を置いてきたのか、置いてきているのか、それを解く始めの年にしてもらいたいものである」(「自主・平和・民主のための広範な国民連合」2001年新年のメッセージ、月刊誌『日本の進路』2001年1月号)
「私的な関係」
戦時中、核兵器開発を手がけた反動なのだろうか。伏見博士は戦後一貫して、核の平和利用と核兵器の廃絶を訴えてきた。同博士はまた、〇一年一一月、朝銀信用組合の破綻に絡んで東京の朝鮮総連中央本部に史上初のガサ入れが入ったとき、元日教組委員長で元総評議長でもある槙枝元文、元国連大学副学長で当時は中部大学教授の武者小路公秀らとともに抗議声明も出してもいた。
89年、科協の大会に招かれた伏見博士は、壇上から愛弟子に向かって優しくこう語りかけたという。
「会長の李時求さんと私とは、いささか私的な関係がございまして……」
李時求初代科協会長は、京都大学から大阪大学大学院に進み、伏見博士の下で原子物理学を学んだ。大学院時代は伏見研究室の優等生だったという。87年には李会長が仲介して、伏見博士を北朝鮮に招待したこともある。このルートを通じ、日本の原子力技術が北朝鮮に流れた可能性も捨て切れない。
理研と科協
さらに戦時中、伏見博士と共同で原子力研究に打ち込んだ理化学研究所、通称・理研と科協の関係について考えてみたい。
長岡半太郎、鈴木梅太郎、本多光太郎、寺田寅彦、仁科芳雄、朝永振一郎、湯川秀樹……と、日本を代表する科学者を輩出した理研は、1917年に財団法人として設立された。
第3代所長を務めた大河内正敏は工学博士で、日本初の「学」主導による産学協同システムを構築した理研の中興の祖である。
科学者であると同時に優れた経営感覚の持ち主だった大河内博士は、企業が研究所を持つのではなく、研究所が企業を持つ産業集団、通称・理研コンツェルンを形成し、科学主義工業、農村工業を掲げて、ビタミンA、感光紙などの事業化につぎつぎと成功。最盛期には、63社を数える理研産業団を育て上げた。理研はまた、当時の政界とも深い関係を持ち、吉田茂から田中角栄にいたるまでの幅広い人脈を持っていた。
戦前・戦中において、日本の軍産体制を支える一翼を担ったのがこの理研産業団であり、その代表的研究が「2号計画」と呼ばれた原子爆弾の製造であった。
理研はこの原爆製造計画を進めるにあたってウラン濃縮の研究から始めた。戦前・戦中にわたって朝鮮半島北部の山河で集中的に資源探査を行ない、黄海道に世界的ウラン鉱山を発見した。そして理研と組んでウラン濃縮の技術研究をリードしたのが、初代科協会長の恩師でもある伏見博士だったのだ。つまり、日本の原子力研究と北朝鮮は、すでに戦前から深いつながりがあったのである。
「科学者の楽園」
理研が朝鮮半島北部の資源探査に熱心であったことは、戦時中、咸鏡南道北青郡の羅興に資本金1000万円を投じて理研特殊製鉄の工場を建設したことからもわかる。
この工場は、航空機生産に欠かせないマグネシウム金属などの採掘にもあたっていたが、本格的な生産に入る前に日本は敗戦を迎えてしまった。この当時、理研のマグネシウム生産技術は、世界屈指の能力を誇っていたという。
研究機関の産業化に成功した理研は、その潤沢な資金によって国内理工系学徒の養成に努め、「科学者の自由な楽園」と呼ばれるようになる。その伝統は、戦後になって科学技術庁の傘下に入ってからも受け継がれたが、次第にその「自由」の弊害が出てくることになった。
理研の自由な学風は、国籍条項よって外国人に門戸を閉ざしていた公立研究機関と大きく異なっていた。国籍条項を設けない理化学研究所は海外から多数の研修生を受け入れ、かつ外国籍を持つ在日外国人も広く採用した。そのなかには、北朝鮮に忠誠を誓う在日朝鮮人科学者も多数存在した。
「北朝鮮の産業スパイ集団」とすら呼ばれる科協のメンバーが、労せずして「科学者の楽園」である理研に浸透していったのは、まさに必然だったと言うしかない。つまり問題は、一貫して世界最先端の技術力を保ちながら、情報防衛(インテリジェンス・リテラシー)に関しては世界最貧国とでも言うべき、日本側の危機管理能力のなさにあったということになる。
「誇らしい貴重な成果」
北朝鮮の大量殺戮兵器のうち、核と並んで注目を集めているのがミサイル、とりわけ大陸間弾道ミサイルの存在である。
最初にテポドン1号の発射実験のあった翌年の99年3月、平壌の人民文化宮殿で「全国科学技術者大会」が開催された。
日本から総連科学者代表団(科協)も参加したこの大会で、北朝鮮の崔泰福書記はこう演説した。
「一〇〇%我々の力、我々の技術で人工衛星の打ち上げに成功したのは、わが国の最新科学技術のもっとも誇らしい、貴重な成果である。在日本科学者・技術者たちは、社会主義祖国の富強発展と祖国統一のために愛国的な活動を活発に繰り広げ、主体朝鮮の公民になった栄誉を胸深く刻み、祖国の科学者、技術者たちと経済建設に大きく尽くした」
ここでいう「人工衛星」とは、98年8月、日本に向けて発射された3段式ミサイル・テポドンのことであり、北朝鮮のミサイル開発に在日科学者・技術者たちが「大きく尽くした」と言っている。
日本の最高学府と研究機関で最先端の知識と技術を身につけた科協のメンバーが、その能力を駆使し、日本に向けて弾道ミサイルを飛ばしているのだとしたら……。これはもうブラックジョーク以外の何物でもない。
「北のフォン・ブラウン」
そして、西側情報機関の関係者たちのあいだで、このミサイル技術に深く関っていると信じられているが、科協のなかでもエンジン工学に強い東京大学生産技術研究所(生産研)出身者の人脈だ。
科協には、ともに徐という姓の二人の内燃機関(エンジン)専門家がいる。いずれも東大工学部卒、生産研出身である。
うち一人は科協の顧問を務め、「北朝鮮のフォン・ブラウン(ドイツ出身で「ロケットの父」と呼ばれる弾道ミサイルV2の開発者)」と異名をとる在日科学者で、公安筋によれば「NASA(米航空宇宙局)に勤務したこともあり、弾道計算に精通している」という。もう一人はその弟分とでも言うべき人物で、二人は仲の良い兄弟のように行動をともにしている(実際の兄弟であるとの報道もあったので、ここでは仮に「徐兄」、「徐弟」とよぶことにしよう)。
じつは彼らは、98年のテポドン発射事件を前後して、頻繁に日本と北朝鮮の間を往還し、時にはともに帰国しているのだ。日本の公安当局は、この二人について、北朝鮮のミサイル開発の鍵を握る人物との見方を強めていた。
万景峰号から降りてきた科学者
北朝鮮が、スカッド、ノドン、そしてテポドン2号と、立て続けにミサイルを乱射して世界を震撼させたのは06年7月5日だった。
その直後、日本側は安倍晋三官房長官が陣頭指揮をとり、制裁措置として万景峰号の入港禁止措置を直ちに決定した。
じつは、ミサイル発射当日の朝、修学旅行帰りの大阪朝鮮高級学校生ら209人の乗客を乗せた万景峰号は新潟港に入港しようとしていた。ところが政府による緊急制裁措置により、沖合約三キロまできたところで停泊したまま入港できなくなる、というハプニングが起こった。
午後になって「人道的配慮」により一時的な着岸が許され、乗客たちは全員無事日本へ入国して事なきを得たのだが、このとき下船した乗客のなかに注目すべき人物が混じっていた。それが前述の「北朝鮮のミサイル兄弟」こと徐“兄弟”だったのである。
日本の国立大学工学部を卒業した徐弟は、東京大学生産技術研究所勤務を経て民間のエンジン関係研究機関に籍を置く。その後、北朝鮮に籍を置く日朝合弁企業・金剛原動機合弁会社の副社長を務め、93年には北朝鮮から工学博士の共和国博士号を授与されてた。
北のミサイルエンジン工場
北朝鮮の元山に本社と工場を構える金剛原動機は、表向きトラクターなどの農業機械用「金剛エンジン」を製造するために設立されたことになっているが、近年、西側の軍事部門関係者のあいだでは、この金剛原動機こそが北朝鮮のミサイルエンジン製造工場であると信じられている。
この会社の日本側出資元は朝鮮総連系の商工人団体である在日本朝鮮人商工連合会だが、北朝鮮側出資元は朝鮮人民軍の関連企業である第二経済委員会傘下の朝鮮恩徳貿易会社なのである。また金剛原動機は、核兵器など大量殺戮兵器の拡散防止を目的としたキャッチオール規制が指定する「外国ユーザーリスト」にも載る会社であり、「北朝鮮の軍産関連企業」としての評価が定まっている。
そして、この金剛原動機の社長を務めるのが、徐弟の先輩であり、共同研究者であり、科協(在日本朝鮮人科学技術協会)副会長(現顧問)を務めたこともある徐兄だったのだ。前述のように、2サイクルエンジン研究の世界的権威であり、「北のフォン・ブラウン」と一部の関係者のあいだで異名をとる人物である。
このような優秀な科学者たちが、「科学には国境はないが科学者には祖国がある」の信念の下、弾道ミサイルが飛び交う日本海を往来していたのだ。
科協の歴史
科協の歴史は終戦翌年の1946年に遡る。
同年6月まず関東で在日本科学者協会(のちに在日本朝鮮人自然科学技術協会と改名)が誕生し、その7年後の53年7月に関西で「在日本朝鮮自然科学者協会が生まれた。
そして54年5月、東西の科学者協会が統合し、医学部門も併せて在日本朝鮮人自然科学技術者協会として再スタートを切ることになった。さらにこの年、在日本朝鮮社会科学者協会、そして在日本朝鮮医薬学協会をも吸
収し、日本国内における「科学」と名のつくすべての団体を統合した在日本朝鮮人科学者協会が結成された。北朝鮮の在日公民団体である朝鮮総連が成立するちょうど一年前のことだった。
その後、社協(在日本社会科学者協会)、医協(在日本朝鮮人医学協会)が分離独立して、85年7月に、自然科学に特化した現在の「在日本朝鮮人科学技術協会(科協)」となる。本部は、朝鮮総連の関連事業体が多く入居する東京・文京区白山の朝鮮出版会館ビルのなかにあり、その組織形態は、数学委員会、物理学専門委員会、化学材料専門委員会、生物農学専門医委員会、機械自動化専門委員会、コンピュータ専門委員会、土木建築専門委員会、電気電子専門委員会と8つの専門委員会に分かれている。
衰退する〝産業スパイ集団〟
科協には有能な人材が多いが、自然科学とはいっても、その幹部クラスになると要職のほとんどは物理学や機械工学など理工学系の人材が占める。そして先に見たように、とくに原子物理学や宇宙工学など、軍事産業に近接する分野ほど重用される傾向がある。このほか研究部や技術部等の部長、各「専門委員会」委員長等でも、やはり多いのが理学部・工学部出身者だ。
出身大学別では、ほぼ半数が在日朝鮮人社会の最高学府である朝鮮大学校の理工学部を卒業している。
次に多いのは東大工学部、さらには京大工学部や東工大が続く。朝大出身者は、卒業後に東大ないし京大の大学院に進んむケースも多い。彼らがどれだけ優秀な頭脳集団か、これらの出身校を見ただけでもわかる。
そして、これら科協の優秀な在日科学者たちが多く所属するのが、日本科学界の頂点に位置する東大生産技術研究所と、前述の理化学研究所である。いずれも、日本の自然科学分野をリードする研究機関の代表格だ。
前述した「北のフォン・ブラウン」こと徐兄もこの東大生産研で工学博士号を取得している。そして、その徐兄と行動をともにし、万景峰号を通じて日朝間を往復していた徐弟も、この東大生産研の出身である。そして、理研と北朝鮮の核開発にのっぴきならぬ関係があるだろうことは、すでに記したとおりである。
しかしこれだけ優秀な頭脳を集めた科学者集団である科協も、2000年代後半の相次ぐ摘発により、すっかり“北朝鮮に軍事機密情報と物資を運ぶ産業スパイ集団”の烙印が押されてしまった。衆人環視に晒され、以前のような隠密の行動ができなくなった。その後、ここ数年は、不正輸出等、科協絡みの不穏な事件もすっかり鳴りを潜めている。❏
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