突然ですが、生後一ヶ月後の僕はすごいガリガリだったらしい。
母が、産後、いわゆる育児ノイローゼで母乳があまり出ず、僕はうまく栄養を摂取できなかった。
そして、そんな僕を助けてくれたのはおばあちゃんの勇気ある行動だった。
今日はそんなおばあちゃんから「大切な人のためならどんな障害も関係ない」ってことを学んだ話をしたい。
見知らぬ土地での出産
実は、僕はドイツで生まれました。
ただそれがコンプレックスだった。
「生まれはドイツ」と言うと、かっこいいねー!とか言われるけど、別に自分の力で成し遂げたことでもないし、1ヶ月で離れることになったから何の記憶もない。
生まれた場所を知らないことがすごい嫌だった。
ドイツは、父親の仕事の関係で行くことになった。
海外に行ったことがない僕の母も赴任に対しては、最初は期待を持っていたらしい。
でも、駐在妻といえば聞こえはいいけど、実際は言語も通じない、友達もいない、全くの0から見知らぬ土地に行って暮らすのは、なかなか大変だったらしい。
そして、そんな生活も2年経った頃、僕はAzuma家の第一子として産声を上げました。
「おぎゃ〜〜」
と無邪気に泣いてればなんでもしてもらえる身分。
母は慣れない海外で子育てをしなければならなくなった。
海外での子育てはより大変にちがいない。
気軽に自分の実家に戻れないし、相談できる友達はいない。
しかも、産後直後の激しい体調のアップダウンが襲ってくる。
縁もゆかりもない地で「僕を育てるというプレッシャー」に母はどんどん疲弊していった。
泣きながらかけた一本の電話
母は疲弊すると同時に乳の出も悪くなった。
育児用ミルクを中々受け付けなかった僕はみるみる痩せ細っていった。
そんな僕を見て余計ストレスを感じて、乳の出が悪くなるという負のスパイラルに陥った。
間が悪い事に、僕が生まれる1週間前に、母の兄、つまり僕の伯父の結婚式だったため、母はおばあちゃんにドイツに手伝いに来て欲しいとは言えず、ずっと1人でなんとかしなくては、と気張ってたらしい。
けれど、そんな状況に心がいっぱいいっぱいになった母は、ついに号泣しながらおばあちゃんに電話をかけた。
電話の向こうで泣きじゃくる母の様子に、おばあちゃんは言った。
「すぐにそっちにいく」
初めての海外。初めての一人旅。
当時のおばあちゃんは57歳。
海外旅行どころか、滅多に旅行にも行かない。
田舎で生まれて、そのまま同じ市内に住んでる人のところにお嫁にいった。
東京に行くのさえ誰かと一緒じゃないと不安だというおばあちゃんがいきなり海外へ一人旅。
覚悟したものの、いざ行くとなると、ものすごい不安感に苛まれたに違いない。
ドイツへ旅発つ日に見送りにきたおじいちゃんに、「一緒にいってほしい」と涙目になりながら頼んだらしい。
おじいちゃんも一緒に行きたかったが、仕事があってダメだった。
そんな不安に襲われながらも、自分の娘と孫の所へ向かった。
少しでも助けになってあげるために。
旅路で迷った時に助けてもらえるように、母から送られたドイツ語で書かれたメモを片手に握りしめて、日本を飛び出してきてくれた。
母からの電話からわずか1週間後だった。
母と僕はみるみる回復していった
おばあちゃんが初めて僕を見た時、あまりにもガリガリで驚愕したらしい。
おばあちゃんは子育ての方法などを母に教えながら、一生懸命僕の面倒を見てくれた。
おばあちゃんがきて1ヶ月も経つと、やっと信頼できる人がすぐそばにいてくれることもあり、母の体調はどんどん良くなっていった。
それとともに、母乳の出もよくなり、ぼくもプクプクと育っていった。
おばあちゃんは帰国日を決めずに日本を飛び出してきた。
母と僕が回復するまで絶対に帰らないと決めていたらしい。
結果的におばあちゃんは半年間僕の面倒を見てくれた。
そもそも、母がドイツでの出産を決めたのは、出産3ヶ月後に、オランダへの転勤を控えていたせいだった。本当だったら、臨月に転勤だったらしいが、さすがに生まれるまではと猶予が与えられ、母は体調が回復すると、今度は引越しの準備に追われた。
そして、また知人が1人もいない未知の地で、スタートを切らねばならなかった。
おばあちゃんは引越しも手伝い、母や僕に付き添って、オランダまで一緒に行ってくれた。
いまでも、「あのときおばあちゃんが来てくれなかったら、どうなっていたか分からない。命の恩人だよ」と言われるし、僕もそう思っている。
そして、おばあちゃんを失った
そんなおばあちゃんが3年前に亡くなった。9月の中秋の名月、満月が煌々と夜空を光で満たす中、病室で一人旅たった。
その日は、奇しくも僕の誕生日だった。
最後のほうは、脳梗塞になり、病院のベッドの上で寝たきりの生活を5年間過ごしていた。
体の左半身が麻痺していたため、ほとんど動くことができず、時が経つごとに話せなくなっていった。
僕は痩せ細っていくおばあちゃんを見ているのが辛くて辛くてどうしようもなかった。
僕がガリガリだったときは、おばあちゃんが来てくれて助けてもらった。
ただ、僕はおばあちゃんが今の苦しみから解放させてあげることは何もできなかった。
頭の上から無力感を突きつけられるようだった。
麻痺していない右手を握ることを会うたびに欠かさずやった。
何も言わず、虚ろな目でこっちを見て、握り返してくれた。
言葉を交わさなくても、「元気かい?」と言われてるようでとても嬉しかった。
そして、それさえももうすることは許されなくなった。
最後に見たおばあちゃんの安らかな顔は今でも忘れられない。
おばあちゃん亡き後、初めて生まれ故郷のドイツにいった
おばあちゃんが亡くなった後、僕の心の中で穴が1個ぽっかりと空いた。
「おばあちゃんは命の恩人だよ」と言われながら育った僕にとって、おばあちゃんの存在は大きかった。
何気なくドイツに行きたいと思った。
僕の生まれ故郷でもあり、おばあちゃんと初めて出会ったドイツに。
ちょうど学生の長い夏休みを迎えていたこともあり、すぐにヨーロッパ一人旅が決まった。
「なんの記憶もないけど、行けばなんか思い出すのかな〜」とか
「おばあちゃんはどんな思いで飛行機に乗ったんだろうな」とか
そんなことを考えながら飛行機の旅を楽しんだ。
正直、最初の期待はすぐに裏切られた。
ドイツに行っても、3歳までの記憶は何一つ思い出さなかった。
ただ、ドイツという国はとても気に入った。
自然と街並みが奏でるハーモニーに僕は酔いしれた。
まるで映画の世界に飛び込んだかと思った。
何より僕は「僕の生まれ故郷はこんなところだよ」って友達に説明できるようになったのがとても嬉しかった。
おばあちゃんとの思い出の場所で感じたこと
アルバムの中におばあちゃんとの1枚の写真があった。
それは、僕が4歳のとき、母がどうしてもおばあちゃんに恩返ししたいからと、再度おばあちゃんを呼び寄せ、おばあちゃんと僕と母の3人でイタリア旅行した写真だ。
イタリアのフィレンツェで撮った僕とおばあちゃんが写ってる写真だった。
僕はそれを持って、ドイツからイタリアへ向かった。
その場所は、びっくりするほど写真と変わらなかった。
銅像が立派に立ったままだった。
違うのは、僕が大きくなったこと。
そして、おばあちゃんはもういないってこと。
改めて、月日の流れを感じて、僕はおばあちゃんへの感謝の気持ちで胸がいっぱいになった。
自分も一人旅をしたことで、おばあちゃんがドイツに駆けつけてくれたことの重みがわかった。
しかも、30年前は今みたいに手軽に海外に行けるわけでもない。
多分僕が感じた何倍も勇気がいることだったと思う。
そして、僕と母のために即断して駆けつけてくれたが何よりも嬉しかったし、感謝の気持ちを言いたくくなった。
でも、「ありがとう」と直接言える事は一生ない
同時に、もし僕がおばあちゃんに恩返しできるとしたら、おばあちゃんにしてもらったことを他の人にもしてあげることだと思った。
母と僕のために一寸の迷いもなく駆けつけてくれたおばあちゃん。
僕もおばあちゃんのように、大切な人のためならどんな障害があってもそれを乗り越えてでも助けたい。
それが、亡くなったおばあちゃんへの恩返し。
そう信じて。
P.S.
おばあちゃんへ。
お陰様でここまで大きくなりました。
本当にありがとう。
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