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ANAの社員が知らないと恥ずかしい創業4つのこと

起業

 "ANA(アナ)"の通称で親しまれる全日空(全日本空輸株式会社)が2016年3月3日、国際線の定期便運航をスタートして30周年を迎えました。

ANAは現在、海外39都市の路線を確保し、2015年度の旅客輸送実績は「旅客数と飛行距離」を掛け合わせると国内ダントツになる見通しです。

2008年のリーマンショックの影響を受けて国営航空会社が破綻する一方、ANAは民間航空会社でありながら、その苦境を乗り越えました。

なぜ、ANAはこれほどに優秀な企業体なのでしょうか?

これらを知る手がかりとして彼らの先輩、全日空の創業者たちを調べると、次の4つのポイントが見えてきました。

  • 飛行機に対する情熱
  • 目標(夢)達成のため、あらゆる手段を考え実行
  • 重要な所で絶対妥協しない
  • 最後まであきらめない(信じ抜く力)

ここから以降、語り部口調でまとめました。

起業を考えている方、また起業を考える副業リーマンは是非、読んでください。

(ちなみに ANA は"All Nippon Airways"の略でした。知らなかった・・恥)

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画像引用元:What's up ANA

1.夢見るオヤジたちの砦

1946年、場所は東京・新橋にある航空会館 ※。

ここは、戦前から民間の航空会社の事務所が置かれ、飛行機野朗たちのたまり場だった。

美土路 昌一(みどろ ますいち・当時60歳)と中野 勝義(なかの かつよし・当時42歳)の2人の姿があった。後に全日空を作ることになる男たちだ。

美土路は、朝日新聞社の元常務だ。新聞社は、戦前から航空機を使い、海外のニュースをいかに速く日本に届けるかで競い合っていた。

朝日新聞社は1937年、「神風号」による東京からロンドン間の飛行時間で国際新記録を樹立した。

当時、美土路は、航空部長として陣頭指揮をとっていた。そしてこの企画を考えたのが中野だった。

美土路と中野は「興民社」という団体を立ち上げ、職を失った航空関係者を雇い入れ、GHQに奪われた日本の空を取り戻す活動の拠点となっていた。

「いつか、空を飛べる日がやってくる」

そんな2人の夢は戦後、禁じられた航空会社の設立だった。

※ 2016年現在、航空会館は貸し会議室をメインとして運用している。アクセスは、三田線内幸町駅から徒歩1分。

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▲東京・新橋にある航空会館

1950年、朝鮮戦争が勃発。この事件が、彼らに転機をもたらした。

アメリカは、共産国家との戦いに力を割くことになり、日本を反共産の砦にしようとした。さらに国力を削ぐためにアメリカがとっていた政策の見直しが進められた。

そして1951年1月30日、GHQは日本企業による航空事業の認可を通達した。

すぐに5社が申請に名乗りを上げた。しかし“日本の航空会社”とは名ばかりで、認められたのは営業活動のみだった。

航空機の所有や運行は、すべて海外の航空会社が担うというのが前提だった。厳しい条件だが、念願の航空会社を作る絶好のチャンスであることに違いない。

しかし、美土路の考えは違った。

いや、見送ろう。

今、航空会社を作っても GHQ や国の政策に左右されるものになる。
我々は、権力に屈しない純粋な民間の航空会社を作らなければならない。

戦時中、朝日新聞の幹部を務めていた美土路は、国や軍部の弾圧に屈して、戦争を食い止める報道が出来なかったことを悔やんでいた。

このとき、唯一認可を受けたのは日本航空だった。当初は、民間会社としてスタートしたが、その後、国からの出資を受け入れて「半官半民」の会社となった。

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▲美土路 昌一(画像引用元:津山瓦版より)

2.まずは“稼ぐ”会社を作る

1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約 調印。

日本の独立が間近に迫った。しかし、国と共同歩調をとる日本航空とは一線を隔す、民間の航空会社を設立することは出来るのか。

民間航空会社の設立という大きな夢を追う 美土路 昌一(みどろ ますいち・後の全日空社長)は、政財界の有力者に会ってその可能性を探っていた。

一方、美土路と同じ夢を追う中野 勝義(なかの かつよし・後に全日空専務)も、先行する日本航空や新たに航空業界に参入する他の会社との差別化を図るため、様々な場所に足を運びアイデアを探っていた。

その時、中野はあることに目をつけた。 彼のひらめいたアイデアとは、“ヘリコプターの会社を興す”ことだった。

1950年代の当時、ヘリコプターは日本人の誰もが目にした事のない存在だった。

しかし中野は、アメリカ軍が朝鮮戦争で使用しているのを見て、その利便性に目をつけた。

航空会館に集う興民社の同士からの批判もあったが、美土路の後押しもあり、ヘリコプター事業を進めることになった。

ヘリコプターならば飛行機の半額以下で購入できる。資金のない美土路たちは、中野のアイデアを実行に移していった。

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▲日本ヘリコプター輸送のヘリコプター(画像引用元:航空歴史館より)

戦前、逓信省(ていしんしょう・現在の総務省、日本郵政、NTT)の航空局にいた元官僚の渡辺 尚次は、国の許認可に詳しいため、事業計画書を頼まれた。

しかし渡辺は、広い土地のアメリカだからヘリコプターの移動が容易であり、日本で認可がおりるのは難しいと考えていた。

航空会社として国の認可を得るには、「なぜこの会社が必要なのか?」というのに加えて、利益も見込める事業計画でなくてはならない。

しかし中野は、引き下がらなかった。ヘリコプターを事業の広告に使えないか?と打診し、儲かるような内容になるように渡辺に依頼した。

さらにパイロットを確保する必要があった。

何とか集めたメンバーは、GHQの政策によって職を失い、田舎に引き込んでいた面々だった。

戦後はアメリカ式の飛行ルールが導入されたため、使われる用語は全て英語だ。パイロット候補たちは興民社に泊り込み、何とか集めた参考書で学科試験に向けて猛勉強を始めた。

3.情熱

1951年10月、日本航空の一番機「もく星号」が羽田から飛び立った。

GHQの通達により、日本人での運行は出来なかったが、戦後の航空の歴史が動き出した。

そんな中、中野の進めていた事業計画書が完成し、美土路にも見てもらった。

しかし、ヘリコプターが中心となった事業計画書の中身に疑問を抱いた美土路は、もう少し飛行機にもこだわるべきじゃないか、と主張した。

そして練り直された事業計画書は、将来的に飛行機に取り組む姿勢を反映させた。

そこで必要な資本金は、1億5000万円(現在の額でおよそ30億円に相当)。大口の出資者が必要な金額となるが、美土路は断固として拒否した。

理由は、出資者から経営にまで口を出されることを懸念した。

いろんな企業から少しずつ出身金を出してもらう。

小額なら金も集まりやすいし、何よりも我々の経営の自由も脅かされることもないはずだ。

だが、なかなか理解されずに資金集めは難航した。

1952年4月28日。サンフランシスコ平和条約が発効された。そして、日本は独立を果たした。

航空法が施行されるまであと3ヶ月。

この航空法によって業務の制限なく自由に航空会社が作れるようになった。しかし、相変わらず資金集めはうまくいかず、美土路はある行動に出た。

さまざまな政界や財界人の元を訪れては頭を下げ続けた。

彼らが会社の発起人になってくれれば資金は集まらなくても、免許獲得に有利になる、と考えての行動だった。

新航空会社の事業説明会である当日。

政財界の重鎮がズラリと顔を並べた。そして、美土路は彼らに対して思いのたけをぶつけた。

航空会社は、とりわけ安全維持については、監督・官庁の決めたルールを守らなければいけないのは当然であります。

しかし経営については、実勢を保つことが何よりも必要なのです。
そこからいろいろなアイデアが生まれます。わが社はまだ形すらない会社です。

しかし、「現在窮乏 将来有望(げんざいきゅうびん しょうらいゆうぼう)」これを合言葉に、必ず成功してきっと日本の空を取り戻して見せます。

どうかみなさま、協力をお願いいたします。

設立発起人には、元大蔵大臣の渋沢 敬三、日本商工会議所会頭の藤山 愛一郎など政財界を代表する16人が名を連ねた。

社名は「日本ヘリコプター輸送株式会社」に決定した。

4.最後まであきらめない

1952年7月15日、航空法が施行された。

終戦から7年間禁止されていた航空機の運行・所有などが全て日本人の手で出来るようになった。美土路たちの会社は真っ先に名乗りを上げた。

1952年10月21日、日本ヘリコプター輸送に航空機使用事業免許が認可された。先に行く日本航空に追いつくことを夢見て踏み出した第一歩だった。

会社設立は12月27日に決まる。しかし、設立の2ヶ月前の時点でも資金は目標額に到達していなかった。

一方、パイロットとして集められた神田 好武らは無事、試験に合格した。

パイロット養成に間に合わず、外国人機長に運行を任せていた日本航空に対し、日本ヘリコプター輸送はあくまで日本人の手で空を飛ぶことにこだわっていた。

1機あたり1500万円(現在の3億円に相当)のヘリコプターが届いた。まもなく日本人パイロットたちの操縦訓練が始まった。

しかし、設立まで2週間と目前にせまった時点でも、資金はまだ集まっていなかった。

美土路は、何度も企業や銀行に出向いては必死に出資をお願いした。そこで最後の切り札を出した。

懐から取り出した紙を担当者に提示した。その紙には設立発起人16名の名前が記されていた。

最初は渋っていた担当者も、これを見るなり出資を許諾した。最後の土壇場で、何とか出資金の目処がついた。

彼らはこれを「顔担保」と呼んだ。

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1952年12月27日。遂に民間航空会社「日本ヘリコプター輸送株式会社」が設立した。

資本金1億5000万円が集まったのはこの日の未明。役員・社員をあわせて28人でのスタートだった。

新年に行われた全国大学サッカーでのこと。後に全日空の専務となる中野のアイデアでヘリコプターからサッカーボールを落とす、という始球式だった。

この内容が新聞に載り、日本ヘリコプター輸送の名前が広く知られることになった。

そして次々と企業の宣伝飛行の仕事が入り、企業ロゴをヘリコプターの機体に貼り付けて、全国各地を飛び回った。

また、当時珍しかったヘリコプターに多くの見物人がつめかけた。さらに建築作業でも大活躍した。

こうしてまずはヘリコプターで稼ぐ、という当初の計画が当たった。

その後、事業計画通り、夢だった飛行機を購入した。それは、イギリス製の旅客機「デ・ハビランド・ダブ」だった。

乗客は8~11人乗りと少ないが、そこには熱き男たちの想いがつまっていた。

1953年12月15日。羽田空港で日本ヘリコプター輸送の一番機が飛び立つときがやってきた。

日本の空が奪われてから8年。男たちの夢を乗せた日本の翼が大空を舞った。

※この記事は、2010年8月19日放送のテレビ東京「ルビコンの決断」、日本の空を取り戻せ!~全日空 創業「民」の力を信じた飛行機野郎たち~ の放送時の内容をメモして構成しています。