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正義の走者様

 投稿者:銀河系へ  投稿日:2016年 2月 6日(土)18時54分53秒
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  正義の走者様

早速のコメントありがとうございました。
本已・本未有善の件、ちょっとややこしいですが、法華経の従地湧出品第十五で、釈尊は自分の滅後の弘教の担い手として、自らが過去から教化してきたという無数の菩薩を大地の下方から召し出だします。
これが地湧の菩薩です。
そしてその地湧の菩薩の弘教の舞台となる時とは末法です。
ですから、末法で広宣流布の戦いをする人は全て地湧の菩薩であり、釈尊が過去から教化してきたという意味では本已有善という事になりませんか。

しかしこれも生命の真理の物語ですから、又、翻って深い解釈があるようです。

「機根」ということについて正宗の要義より一部コピペしました。

(少し話題がそれますが、現在の学会では残念ながら深く勉強する場や質問できる教学部の方がいないので、学会に資料のない教学に関しては、半世紀以上もお世話になってきた正宗の資料を使うしかありません。
いずれにしても、人法一箇、事の一念三千、円融の三諦、五重の相対、宗教の五綱、などの大聖人の教義の奥義を700年以上も正しく守ってきたのは、この地球上で正宗しかないのは否めません。
正宗に関して他の件は別にしても、そこのところの感謝を忘れてはいけないと思うのは私だけでしょうか。
学会では昨今、あまり勉強をすると信心がおかしくなると言い教学の勉強をさせないようにしていますが、これでは大聖人の仏法の奥義が分からなくなり信心の歓喜も薄れ、もはや、他宗との違いも分からなくなれば
簡単に謗法や与同罪に陥る危険がないでしょうか。)


以下 引用
http://homepage3.nifty.com/y-maki/all/kikon.htm

釈尊の化導は久遠元初の下種に始まり、正像二千年の熟脱に終わるとされている。そして末法の衆生は本未有善の最初下種の機とされるのである。このように、機に対して法仏の化導を中心の軸とし、久遠元初・中間・今日の霊山等、時のうえから種熟脱の化導を示されるのが、本門の真髄である。
 なお、広汎な御書判中には、末法の一般的・客観的な機という問題とは別に、妙法蓮華経受持の順縁の衆生に限って、以上と異なる趣意が示されてある。すなわち信心の境界よりすれば、我々に過去からの仏法との深縁が存したことが示されている。この点について少しく触れておく。
 それは法華経の修行における大聖人自身及び弟子・檀那の、過去の宿習・宿業・宿縁に関する教示である。まずその宿業観として、法華経の修行による様々な大難は過去の法華誹謗によるものであること、すなわち、法然・弘法等のごとき謗法者に賺されて実経より権経へ堕ち、小乗へ堕ち、外典外道へ堕ちたこと、また菩薩より二乗へ退転し、二乗よりまた退して六道の生死に沈淪したことを内省されるとともに、今生の法華経弘通の功徳によって、順次生に地獄に堕ちる過去の無量の罪業が、一度に、しかも軽く、諸難として起こっていることを述べられている。
 その反面、今生の法華経の信心修行は釈迦仏の使いである等、仏法との宿習・宿縁が説かれ、特にその折伏による大難重畳・身読体験は、不軽菩薩の跡を紹継するものであることを述べられ、更にこの妙法受持の生命こそ地涌の菩薩の再誕であることが示されてくる。
 これらは、皆法華経の文々を我が身に合わせた実践体験であり、法華弘通という主観的立場からの観心の境界である。このうえから大聖人及びその弟子・檀那、いわゆる順縁の機は、過去久遠から仏法における宿習・宿縁のあることが、自覚的に発現することを指摘されている。
 特に地涌の菩薩としての自覚は、仏法の本源である妙法蓮華経を護持するゆえであり、このような信心修行の主体的立場に立つとき、大聖人自身はもちろん、その弟子・檀那も、同様の生命的大自覚中に存することを教示された。すなわち、一例として
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや(中略)末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(新編 666)
 の文に明らかである。要するに各御書においての、般泥洹経の八難観、無量の大難観、六道輪廻観、菩薩・二乗よりの退転観、三千塵点・五百塵点の仏法との宿縁観、あるいは妙法受持による仏勅使観、過去十万億仏供養宿習観、不軽菩薩の行位紹継観、地涌の菩薩としての自覚・生命観等は、すべて過去の宿習・宿縁より述べられているのである。
 さて、このような宿習・宿縁観は、その時々の境界により種々に示されているが、必ず本源における証悟があって、その広大深厚な境界中より妙法蓮華経の修行と実証、順逆等の意義を、三界六道ないし九界の衆生の体験を抱摂しつつ、その化導のために自在に説かれるのである。
 この本源の証悟とは何か。
 すなわち凡夫即極の久遠元初自受用身の一身一念である。久遠元初本仏の所在は、釈尊・天台・伝教等の諸聖も内鑑冷然にして説かれず、三国無数の法華経の諸学者等も思い及ばないところであり、ただ大聖人のみが当体義抄・総勘文抄・三大秘法抄等にその形貎を明かされている。これらの文にその意義が究竟しているが、特に左の御義口伝の
「元初の一念一法界より外に、更に六凡四聖とて有るべからざるなり。所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり」(新編 1801)
 の文もまた、顕露彰灼に久遠元初本仏の一念が、事実において十界三千の諸法の枢要であることを喝破せられている。したがってその大境界より、妙法蓮華経受持身読の鏡にかけて、六道四聖の境界を照らされるのであり、それが各御書の種々の宿縁・宿業観にほかならない。
 この根本より拝すれば、大聖人の教えを受けて妙法を受持信行する末法順縁の衆生は、その凡夫の当体がそのまま本地無作三身である。一切衆生は正因性の仏子であり、本来の仏であることが無作本覚の意義であるが、そのままでは真仏としての体も用きもない。それが日蓮大聖人の仏法による下種結縁、すなわち縁因・了因の乗種、妙法蓮華経により無作三身と開覚することが許される。
 無作三身の悟りに当てはめるとき、大聖人の弟子・檀那はすべて久遠即末法、末法即久遠の開覚によって、仏法における中間や近世における結縁のみならず、一切の個性の永遠性において、久遠元初の因縁があるとの自覚が存する。久遠元初の一念は即末法本仏の一念であり、六道四聖の宿縁も末法我等の信心の一念に具わるから、我等がすなわち地涌の菩薩と断定されるのである。
 前来述べるごとく、客観的な末法の機はあくまで薫発すべき下種結縁のない衆生である。しかるに、一たび下種仏法を信心して久遠元初の妙法の開覚に立つとき、末法は即久遠であるから我等は久遠より仏法に対する因縁があり、また久遠即末法であるから、末法の本仏日蓮大聖人との因縁により成仏することが確信される。
 次に信心修行と広宣流布に励む実践のうえから我等の機を考えるとき、久遠元初の因縁観による自覚も、あるいはまた久遠即末法の一体観における結縁も、その最後の帰結点は末法出現の本仏日蓮大聖人と末法の衆生との下種結縁が基本となるべきである。すなわち我々は客観的な本未有善の機観からは、初めて下種仏法に巡り値い、仏種を受けるのであり、また主観的信心観としては、久遠元初よりの因縁ありとの意味もある。しかしそれは、ともに末法にあって本仏大聖人の仏法に値い奉り、その妙法を受持するうえの観心境界であって、畢竟するところ、大聖人の大仏法中において信心修行し、即身成仏を実証していくところに機の真義が存するからである。
 故にまた末法の衆生は他の仏教外のあらゆる宗教においても、あるいは小乗・大乗・爾前経・迹門・本門等、一代応仏釈尊の領域より出た各宗各派の教えでは、根本の成仏の種子を植えられず、成仏はできないのである。今日、世界には数十億の人口があって、一々の機は無量であるが、すべて大聖人の仏法によってのみ成仏できることを確信し、たゆみない教化折伏を進めていくことが肝要である。
以上 引用終わり

かなり難しいですよね。間違っていたら又指摘して下さい。
分かりやすくいうとこういう事でしょうか。
在世、正法、像法時代の民衆の機根と末法の民衆の機根を相対的に比べた場合は本已・本未の差がありますが、ひとたび末法の衆生が因果具時の妙法を受持した時には、久遠即末法、末法即久遠の開覚によって
生命の本地である久遠元初にただちに立ち返り、そこから時間的な中間の時を超越して本因の因縁を因果具時として創出する。因とは仏種を植え修行することで、果とは仏果でありますが、大聖人の仏法では因果具時の妙法でありますので後(仏果)も先(仏種)もないという不思議な現象になり、我々の生命が久遠元所の本地無作三身となったときに本因の因縁も同時に顕われる、、、という事でしょうか。

又これは全く私の私見ですが、生命が無始だとしたらそんなに長遠の間に一度も本因の下種を受けた事がないとはちょっと理解できないことであり、それよりも過去に受けた下種の種をホウボウの罪で炒ってしまったために「種」
を破壊してしまった人々を「本未有善」というのではないかと思った次第です。
いずれにしても結論は、正義の走者様がおっしゃる様に
「まだまだ世界には本未有善の衆生がたくさんいます。だからもっともっと下種しなければなりません。
一方、幸運にも下種を受け得た人は、首尾よく一生成仏を遂げなければいけません。」
だと思います。
私も微力ながら先生のすばらしい教学の講義などを参考にしながら、この大聖人のすばらしい大生命哲学を下種していきたいと思っています。
長々と失礼しました。
 
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