2016-03-20

×1年間に渡って独り身だったのだけれど、恋人ができてしまった。

付き合い始めた切欠けは、告白したでもされたでもなく、あるとき結婚してみない?」と言われたことだった。10年来の知人である。後になって訊いてみたら、その当時つきあっていた彼女にふられて挙句相続関係実家問題が起こり、絶縁状態になっていて、何となく言い出したものの「ここで断られたら一生一人で生きていこう」と思っていたとか何とか。私は男性と恋をしたいとはそこまで強烈に思っていなかったのだけれど、ただ家庭を持ちたい気持ちはうっすら存在していて、以前から、どう生きても×2歳あたりまでにはそのへん、やってみるか諦めるか決めなきゃと思っていた。そのとき先方×0歳、当方×9歳。2年前の話。

話を戻したところ、先方が「せっかくだから恋人関係からやってみたい」と言い出して今に至る。数ヶ月前の話である

付き合い始めて真っ先に認識したのは、自分には「男性男性であるというだけで欲情するという感覚がない」ということだった。気づいたときちょっと悩んだ。なお、女性の体にはわりと反応するし女性の魅力についてだったらまぁノンストップで三時間くらいは語れる。男性に関していうと、元々少年青年漫画はよく読むし(むしろ少女向け媒体より圧倒的に読む)登場人物をそれなりにかっこいいと思うときもあるのだけれど、性的にはそこまで強烈に希求しない。SNSでは百合の話ばっかりしていると友人に笑われたことがあるし、しょっちゅう男性向けのエロ同人だとか百合系のテキストだとかイラストを漁っているのだけれど、ただ、そこは二次元趣味範疇であって、根本的な性癖について考えたことはなかった。のだけれど、どうももっと根本的な部分で「女性が好き」だった節がある。そういえば人生最初に好きになったのは女の子だった。次の機会があったら同性とつきあってみたいと思っている。次の人生でもいい。仮定の話だけど。

はいえ、もともと、自分性向について深いこだわりはなかったので、この点は枝葉末節にあたる。

恋人について。ある種切実な話として、彼には女装歴がある(私はその頃のことを知っている)。とはいえ、付き合い始めた理由特にそこは関係ない。現在フツーにどっからどう見ても「男性」だし、本人曰く「女装してた頃より10kgは太った」ということだし、まぁ(格好によっては)男前ではあるのかなと思うけれど、典型的フォーマットとしてのイケメンではない。私は「視覚的に興奮を得るのは女性」という話だけれど、かといって別に男性嫌悪者でもないので、一緒にいたり視界に存在していても、その人が傍にいる、という感覚しかない。「異性への」、というか、セクシャルな高揚、みたいなのは最初から今に至るまで、あまり実感がない。ただ話しはじめたら何だかずっと二人で喋っている。会ったころからそういう仲で、付き合い始めてもそこはあまり変化がない。

相手性的に興奮していることに対して、最初のうちは嫌悪や重さを感じることも多かった。もともと、性嫌悪的な傾向はとくになくて、他人の性欲の話自体は嫌いじゃないんだけど、自分に向けられる、とか自分がどうこうする話となると話は別だ。今でも、ある種の男性特有熱量(女性にはわかると思う、男性でもわかるかもしれない)に対する抵抗が、向かい合ったはじめの瞬間だけ起こるときがある。その上で許容できていたのは、相手が「話せる」他者だったのと、この人とパートナーシップを構築するのは楽しいかもしれない、という単純な予感があったことがひとつ。もうひとつは、そのひとが単純に「触られても平気な相手」だったからだ。理由はいろいろあるのだと思う。わからないけれど。

自分が受容できる相手に、自分存在を求められている」ということによる承認欲求が充足される感覚、とか、他者承認承認される快感(性的快感とはちがう)、みたいなのを感じられるようになったのはごく最近で、しかセックスをするようになってからだった。どうもスキンシップの欲求自体はちゃんと存在していたようで、思いの他セックス楽しいのだけれど、「違う体を持った、受容できて話の通じる他者とあれこれ試すのが楽しい」といった部分が強くて、欲しい、みたいなのは今のところ思ったことはない。今後もないんじゃないかと思う。セックスをしていてたまに、この人が男性で私が女性でよかったのかもしれない、と思うときもある。この人が女だったら別の楽しさがあったのかなと思うこともある。

男性女性を問わず、わりと惚れっぽいというか、「いいな」と思いやすい性分だった。貞淑であるのは気が多いことに等しい、という言葉が、私にはよくわかる。それでも「恋愛をする」コストが賄いきれなくて、長い間恋をせずにやってきた。処女だったことに、周囲とか世間が言うほどには抵抗はなくて(むしろ、例えば童貞であることをアイデンティティの欠陥であるかのように悩む人々を見て不思議にすら思っていた)、相手を選んだいちばんの理由は、たぶん、「一番最初に話を持ちかけてきたのがその人だったから」だった。選択は間違えていなかったと思うけれど、決めた相手女性だったとして、それでもそれなりに必死になれた自信みたいなものはある。必死になる、というか、おそらくそれが「愛する」という感覚で、でも、それを知ったのはこの人のお陰で、仮に今後、分かれることになったとしても(だってこの先何があるかなんてわからない)、この感謝だけは絶対に忘れないはずだ。私は人を愛することができる。それは現在で、どのように生きるにせよ、一秒一秒、つねに過去になる。それは刻々と更新されている。その事実が、どれだけ嬉しいことか。

この社会で男であるである、というのは、ある種とても辛いことなのだと思う。自分が「もてない男であることに悩んでいた知人が、30代を過ぎて、どんどん偏屈になっていったのを見ていた(なお、私はあるとき縁を切られた)。同世代女の子たちは、自分が女としての生を生きなければならないことにその都度悩みを抱えていた。恋人は、(私の見ている範囲では)社会においてそれなりに有能な人だけれど、折に触れて当時「女の子になりたい」と言っていたのを見ている。私は、外見は紛れもなく女だけれど(好みはないのだけれど、容姿上『女らしい』格好のほうが似合うと把握しているので大体そのようにしている)、ロジカルなほうに論が立つ性分で、共感素振りは得意だけれど、ジェンダーロールとしての「女らしさ」にはコンプレックスがある。

このところ増田で散々話題になっている「男は女をエスコートすべきか否か」問題、そういえば、初回のデートの行き先を提案したのは私だった(そして彼は財布を忘れた)。例の話を読むまで忘れていたけれど。だととはい現在のところ私のほうが収入が低いのと、けっこうすぐ困窮するので、わりとよく奢ってもらっていて(競争で財布を出しているけれど、私は人に奢るのも好きなので偏るのは不本意ではある)、あと、料理は好きなので、それぞれの家に行くことがあったら材料はこっちで用意して作ったりはする。所々、普通の男女カップルらしい趣になっていて、まぁ、別に「そうであってはいけない」とも思っていないので、それはそれでそれなりに面白い

付き合っていて感じるのは、「こうすべき」ではなくて、「こうして欲しい」「こうしたい」を相互に伝え合うことの重要性だ。一般的な男だとか女だとかのあれに結果的に近いこともあるし、遠いこともある。けれど、何より、それはとても楽しい遊びだ。遊び、だと思う。意見の相違はたびたび起きているけれど、基本的には、それを調整することもすごく楽しい。怒ってみせる(「みせる」であって、別に本気で怒っているわけじゃないけれど)こともある。情に訴えることもある。でも、そういった駆け引きも遊びの一環で、相手根本否定しないスタンスというのか、その上でやいのやいのやるのは本当に楽しい。この点については、彼氏のほうも同様なのではないかと思う。この遊びができる、ということはとても楽しい。逆に、「こうしてくれるはず」と思って漫然と待ちに入ったりすると何となくうまくいかない、感じになる。

無論将来のことも話す(付き合い始めなのにずいぶんクリティカルな議題まで詰めてしまった)けれど、そうやって決めていく、というのも、まぁ現実的問題は常に起こっているし既に想定可能なのだけれど(お金問題とか健康問題とか、でも、これは各自ずっと努力していかなきゃいけないことだと思っている)、楽しい。よくわからない。楽しい、のだと思う。男であるであるという重さより前に、「何かが起こる」「何かができる」ということが。恋人がいる、ということに社会的ステータスを見出す風潮は今でも好きではない。これは事実上リア充だよねという話をたまにするのだけれど、でも、「恋人いるから」楽しいわけではなくて、むしろ、そういう形で雑に括ってしまいたくなくて、ただ自分たちのしていることが楽しい、という感覚が近い気がする。

ろくでもない時間を生きてきて、長いことネット界隈にいると、不幸な話のほうが身近であるように感じてしまうというのか、「楽しい」というのがなんとなく釈然としないのだけれど、ある場所にはあるのだなと思ったりもする。身近な他人の、そういうような話をきいたときと同じように。遠い世界の話のように。

「らしい」愛情表現ができるほうではなくて、「好き、でいいんだよな?」と、よく確認される。
 「好きだよ」と答えるけれど、いかにも恋人がいますというような、どきどきした感じは未だになくて、実はちょっと自信がない。先日母と電話したとき、「つまらないんじゃないの?」と言っていた。それが全くないとは思わないのだけれど、正直、今の楽しさと天秤に掛けてそちらを取れる自身はない。恋をしている、実感はほぼない。でも、選んだのがあなたで良かったし、それぞれ負担にならない範囲で、あるいはそうすることも含めて、これからも楽しくやるための労を惜しまずにいたい、とは思っている。

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