サンキュータツオさんと、春日太一さんの『俺たちのBL論』(河出書房新社)を読んでいたら、「『BL』というのは、『第一次原作に男性同士の恋愛が描かれているもの』。『やおい』というのは、『第一次原作には描かれていないものの、キャラクター同士の恋愛関係を読み込む精神構造や創作活動』」だと説明されていました。
この部分を読んで、私がこれまでmessyで取り上げてきた作品にも、厳密にははっきりと分けることはできないのかもしれないけれど、「ジェンダーが意識的に描かれているもの」と、「意識的にはジェンダーが描かれていないけれど、その構造を読みとれるもの」の二通りがあるのではないかと思いました。
例えば以前取り上げた『ビリギャル』には、主題にジェンダーがあるわけではないけれど、女子に教育にお金はかけなくてよい、それぞれの居場所で幸せになれればよいという窮屈さを個人的に感じました。ハン・トンヒョンさんとの対談で取り上げた『マッドマックス 怒りのデスロード』は、『ヴァギナ・モノローグス』の作者で、アフリカのコンゴでレイプ問題に苦しむ女性たちのための活動をした経験があるフェミニストの劇作家イブ・エンスラーがコンサルティングをしたということを考えても、ジェンダー、フェミニズムを念頭において描いたと言っていいでしょう(もちろん、その情報がなくとも、映画から直接感じられるわけですが)。
・「アイドルを消費する」日本に、『マッドマックス』が投下したもの
・恋愛関係でなくても男女は協力できる 「当たり前」を描いた『マッドマックス』が賞賛される皮肉
ただ、今回取り上げるクェンティン・タランティーノの『ヘイトフル・エイト』は、「ジェンダーが意識的に描かれているもの」と「意識的にはジェンダーが描かれていないけれど、その構造を読みとれるもの」のどっちかと考えると、なかなか難しいものがあります。