私が通っていた小中学校は、よそでいじめられた子が転校してくる学校で、ほんと平和だった。不良なんてもちろんいない。一般的な学校だと、トイレにタバコの吸い殻とかが落ちてて大問題になったりすると思うんだけど、うちはお菓子のゴミがあっただけで全校集会になって怒られるくらい平和だった。
そんな学校でもノイローゼになって不登校になる子はいて、でも当時は『ただのサボり』だと思っていた。
私は昔から神経が図太かったので、病みがちだったりヒステリックな人間が理解できず、『余命を宣告されたわけでもないのに大袈裟だ。かまってほしいだけでしょ』と思ってた。
病みツイートするやつは即ミュートしてたし、普段から冷たく対応してしまっていた。
でも今、全くそんな風に考えなくなったのは、4年前に偶然このつぶやきを見てからな気がする。
mixiで「鬱なんか甘え、みんな同じ仕事してるのにそいつだけ鬱とか、演技だろ」とか言ってるマイミクがいたので「花粉症なんか甘え、同じ空気吸ってるのにそいつだけ苦しいとか、演技だろ」ってコメントしたらブチ切れられてマイミク切られたことがある。切られてよかった。
— 中野 (@pisiinu) 2011年12月1日
これ見て、今まで人間の心のつくりは皆同じだって考えてたのを恥ずかしく思った。 体のつくりが違うから、花粉にアレルギー反応でる人もいれば出ない人もいる。心だってつくりが違うから、同じ仕事をしてても、つらい人もいればなんともない人もいるよね。症状も人によって程度が違うし。
なんで今までこんなことに気がつかなかったんだろう。
このつぶやきを見てさらに思ったこと
高校生くらいの時かな、『喘息がつらい、死にたい』とずっと言ってるやつがいて、怒ったことがある。私の言い分は「余命が短い人とか、五体満足じゃない人でも前向きに生きてるのに、よくそんなこと言えるね」だった。
でもそもそも、そいつはそんな余命が短いわけでもないし、五体満足なんだから(別に喘息が軽い病気だとは思ってないけど)そいつにとっては人生の中で『喘息』が何よりも不幸なんだ。
仮に私があと半年で死んでしまうにしても、『喘息なんて大したことないよ』なんて決める立場ではない、逆に明日死ぬ人が私に『まだ半年生きられるだけマシ』なんておかしい。
1日パン一個しか食べられないくらい貧しいけど「家族と一緒だからと幸せ」という人もいれば、就活失敗して自殺するような人もいる。
あのつぶやきを読んだ時に、人によってつらいのモノサシが違うことに初めて気がついた。それまで「甘ったれ」だと思っていたことをすごく反省してる。つらいかどうかは本人が決める。
今は誰かに相談されたら、悩んでるのがバカバカしくなるくらいの冗談を考えてみるくらいには、優しくできるようになった。