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青春ゾンビ

ポップカルチャーととんかつ

坂元裕二『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう 』9話

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うーん。9話、これはどうなんでしょう。個人的には、最終回への繋ぎと慌てた畳み方で捻りがないというか安易な展開や演出が目についた印象だ。正直書かなくてもいい気もしているのですが、せっかくここまできたので、全話レビューを成し遂げたいと思います。最終回は素晴らしいものになると信じているので、このエントリーの後半部分は不満点に費やす結果となっていますが、あしからず。



話における美しさは2つ、そのどちらシーンも”携帯電話”によって演出されている。思い返してみれば、連絡先を伝えるシーンを描きながらも、音と練が携帯電話を介し会話するというシーンはこれまでに登場していない。おそらく意図的に抑止されていたのだろう。想いを交す時にはテーブルに向かい合う、それが今作に流れる緩やかなルールのようなものであったはずだからだ。そのルールが破られたという時点で、音と練のお別れの時は近づいているように思えてしまうではないか。

<春にして君を想う>

シェイクスピアの古典かのように会う事を禁じられた音と練。せめて声だけども、と願う練。それまでのプロセスはどうだろう。明かりの消えた部屋で布団に横たわりながらメールの返信を気にして眠れず、結局気持ちが抑えきれなくなり電話をかけてしまう。なんだか見覚えがあるようなないような、最終回直前になっても、まるでティーンエイジャーのように恋をする2人なのである。いや、呆れるなかれ。アラサ―だろうがアラフォーであろうが、”たった1人の人”と落ちる恋というのは、いつだって人を思春期に戻してしまう。


<青い夜>

これから眠らんとしているにも関わらず、音と練どちらの部屋の窓もカーテンや雨戸で閉じられていない。おかげでどうだろう、明るい月の光が夜の黒と混ざり合い、”青い夜”が部屋に生まれている。”青い夜”というのは、これまでの坂元裕二作品の中でも繰り返し描かれてきた重要なモチーフの1つだ。フィンセント・ファン・ゴッホがかの有名な『夜のカフェテラス』を黒の絵の具を使わずに夜を描いた事から着想したものと思われる。坂元裕二が29歳の時に手掛けたサウンドノベル作品『リアルサウンド~風のリグレット~』(1997)では、主人公の2人がゴッホの”青い夜”を見る為に駆落ちの約束をする。

夜が青いんだ。海みたいに広い広い麦畑があってさ、ずうっと向こうの方まで何にも見えなくて、星があって月があって、他には何にもないんだけど、なんかさ、なんか起こりそうな感じがするんだ。どきどきしてさ、心臓が破裂するかと思ったよ。

芦田愛菜主演の『さよならぼくたちのようちえん』(2011)は

死ぬと真っ暗な夜の世界にいくけど、
“青い夜”ならきっとヒロム君は怖がらなくてすむでしょ

病に倒れた友だちが死の恐怖に打ち勝てるようにと、幼稚園児達が青いクレヨンを病室に届ける物語だ。更に、坂元裕二が作詞を手掛けた松たか子の楽曲「空の鏡」(1997)の中にも”青い夜”が発見できる。

たとえば月なら 夜明けに消える 
どうしてあなたじゃなければダメなの
あの日あなたに出会わなければ 青い夜を知らずに
無邪気な夢を見続けながら 眠ったでしょう

ここでは”決して消える事のないもの”として”青い夜”は描写されているようだ。坂元作品において、”決して消える事のないもの”と言えば、”誰かの事を想った気持ち”である。誰かの事を強く想えば、どんな暗闇の中でも光は灯り続ける、黒は青に変わっていく。9話における携帯での会話は、音の本音が決して語られる事がなく、歯がゆく交わらない。しかし、それでもあの夜は青く光っている。誰かが誰かを想っている。ちなみに松たか子の「空の鏡」という楽曲は「恋は終わるけれど 同じ空を見てる」というフレーズで締められる。8話のラスト、音と練もまた時空を超えて火葬場での綺麗な夕日、すなわち”同じ空”を見つめていた。2人の恋もはやり、終わってしまうのだろうか。


<眩しくてちょっと笑った>

ハイライトは文句なしに練が音の携帯電話に残す留守電だろう。これぞ坂元節という筆致が冴え渡っている。そして、これらの言葉が音と練の間で向かい合って交わされない切なさよ。ええい、書き起こしてしまえ。

杉原さん
俺、いつも思ってる事はそんなにたくさんはなくて
ずっと変わってなくて ひとつなんです
覚えてますか?
杉原さんと東京に行く途中に見た
どこだったかな…夜明け
夜明け、見ましたよね?
夜が終わるのを一緒に見ました
東北自動車道に太陽がのぼって 綺麗だった
そっち向かって
俺と杉原さん、走ってた
眩しくて 杉原さん、ちょっと笑って
俺、嬉しかった
眩しかった
あの時思いました 
この人がどうか幸せでありますように
あなたはいつも 今日を必死に生きてて
明日を信じてる

いきなり技術的な話になるが、坂元裕二はこういったモノローグを書かせると抜群に巧い。ほぼ平易な言葉しか使っていないにも関わらず、ここまで聞く人の胸を打つのはやはり言葉のリズムに対する感性が優れているからだろう。もちろん、発話する高良健吾も素晴らしいわけだが。さて、1話は孤独な若者達が光の方へ疾走する物語として描かれていたわけだが、その光の正体は”ここではないどこか“ではなく、練にとっての音、音にとっての練、2人が過ごしたかけがいのない時間であった。その光だけが、真っ暗な孤独の闇を青く染める。

ずっとね、思ってたんです
私、いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう、って
私、私たち、今、かけがえのない時間の中にいる
二度と戻らない時間の中にいるって。それぐらい眩しかった
こんなこともうないから、後から思い出して
眩しくて眩しくて泣いてしまうんだろうなぁって

5話における音の台詞だが、練も同じ想いを抱いている。上記の携帯電話はこうして途切れる。

杉原さん 俺
いつか・・・

練もまた、いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまうのだろう。個人的にも大好きなポップソングを2つ、音と練という交わらない恋人に送りたい。

どんな時だって たった一人で
運命忘れて 生きてきたのに
突然の光の中 目が覚める
真夜中に
<中略>
君という光が私を見つける
真夜中に



宇多田ヒカル「光」

枯れ落ちた木の間に空がひらけ 遠く近く星が幾つでも見えるよ
宛てもない手紙書き続けてる彼女を 守るように僕はこっそり祈る



小沢健二天使たちのシーン

と、ここでいつもの感じのは終わりです。言い残しておきたいのは高畑充希の演技が素晴らしかった事と、一瞬の出番でも高橋一生は最高という事です。台詞以上のものを出せる人。後はもう愚痴です。文体もあえて整えていませんのでご了承下さい。




いや、勿論これまでも首を捻る展開はたくさんあって目をつぶってきたのだけども、この9話に関してはちょっともう我慢できないレベルだ。1話を、音と練をなぞるように更なる若者2人が登場するという展開も凡庸だし、台詞の反復も実に安直。音の関西弁や「飴、食べっ」も、あんなに簡単に出てきちゃうんだ、というショックもありますし。あれは、練との絆みたいなものじゃないのか。で、また階段落ちですよ。音ちゃんの命やいかに、みたいな最終回への”引き”は、下手くそな作家が書くそれのようで、観ていて本当に落ち込みました。散々引っ張った、晴太(坂口健太郎)の素性も、「両親が仮面夫婦だった」という何とも言えないもので、小夏(森川葵)への一途な想いというのも納得のいく答えを出してはくれなかった。「小夏ちゃんみたいな子、東京にはたくさんいるよ」というかつての晴太自身の台詞がブーメランのように返ってくると言いますか、本当に小夏ちゃんみたいな子はたくさんいると思う。嘘がないのがいい、と言いますが、そもそも練への学費おねだりなど小夏を”嘘がない子”として描いて来なかったわけで。『いつ恋』は登場人物を半分にしてしまったほうが、どう考えても密度が濃いものが作れるはずで、実際に坂元裕二も対談の中で、「連ドラの主要人物は2人から4人が理想」くらいの事を言っているわけなのですが、『問題のあるレストラン』『いつ恋』と無闇に登場人物が多いのは何故なのか。いや、坂元作品に限った事ではないのだけど。1クール前の月9とか。そうしないと作らせてもらえないのかしら。朝陽の「仕事はとにかく辛いけど、君の前では笑顔しか見せないから、一緒に生きよう」といった主旨のプロポーズも、バックで主題歌をかぶせて、感動のシーンのように演出されていましたが、あれは正解なんでしょうか。どこまでも切実だけども、残酷でおぞましいシーンだと思うのだけども。それに対比するように、練が迷子の面倒を見ている所を商店街で目撃するという筋があるわけですが、その発想の凡庸さにあきれる。不良が雨の中に捨てられた子猫を拾う、というもはやコントでも使われない擦り倒されたテンプレートと大差ないと言いますか。いや、それを言い出したら、これまでの犬とか花とか全部そうなんですけど。



後ですね、台詞が良くないんですよ。

恋愛は不平等なんだよ
奇数は弾かれるんだよ

とかね、書いて欲しくないの。いやいや、ウケるんでしょうけども、この段階(最終回前話)に来て、視聴者への保険みたいな台詞いらんのじゃ。とにかく、坂元裕二には、こういったどう書いたがわかってしまうような台詞を書いていて欲しくない。坂元裕二の最高傑作『それでも、生きてゆく』(2011)の台詞がいかに瑞々しいか、少し引用してみてよろしいでしょうか。別にどこを引用してこようと、ずっと会話が面白いのですけど、例えば、ここ。

洋貴「ちょっとだけ自分変えられるとしたらどこ変えますか?」
双葉「え、どこかな?どうしよう、フフ、ちょっと会話弾んじゃう感じですね」
洋貴「何、興奮してるんすか」
双葉「じゃあ、深見さんからどうぞ。」
洋貴「僕ですか?僕は・・・小さいことでいいんですよね?」
双葉「決まりましたか?」
洋貴「カラオケ行かない?とか、人に言ってみたいです」
双葉「ちょっと何か、小さすぎません?それは」
洋貴「小さくないすよ」
双葉「私のは、だいぶ大きいですよ、ちょっとびっくりしますよ」
洋貴「どうぞ」
双葉「(咳払いして)スプーン曲げられるようになりたいです、凄くないですか?」

ううう、愛おしくて、切なくて、書き起こしているだけで、泣く。いやいや、どう書けばこんな魅力的な会話が出てくるんだよ?っていう。
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それでも、生きてゆく』『最高の離婚』という最高到達地点を記録した故に、こういった掛け合いをあえて封印して、違うフェーズを目指しているのだと思うのだけど、やっぱり捨てがたい魅力ですよ!その人の生きづらさを、「カラオケ行かない?」の一言に託してしまう筆致ってやっぱり坂元裕二しか到達していないと思うのだ。『最高の離婚』での

むしろ、むしろね、キャンプとか行きたかったですよ
4人で、みんなで
いや、行ったことないですよ、キャンプ
いや、行きたいと思ったこともないですしね

とかさぁ。こういった過去作での台詞の躍動を観返してしまうと、坂元裕二は「恋は衣食住」だとか「恋は不平等」だとか「しずかちゃんは免許証をたくさん持ってる」だとか「得意料理は肉じゃがですって言わなきゃいけない宗教」だとか、そんなNAVERにまとめられそうな台詞書いている場合じゃないのだ、と心から思う。それはきっと他の人でも書ける。貴方には貴方にしか書けない言葉があるんだ、なー。



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