「いじめられてるんなら本を読むといいんだよ。いじめられてるときに、図書館行ってたときは、おれ気持ちラクだったもん」
タラコのパスタを口に運ぼうとすると聞こえてきたのは、男2人組みの会話だった。
いじめられてたときさ、誰だっけかな、大学の先生だったか、
いじめられたときに図書室で本を読んで違う世界にどっぷり浸ることが救いだった。
みたいな話をしていた。
「大地の小説はいつもどこか違う世界に飛び出していく話ばっかりだね」
そんな母親の言葉を思い出したのは、
部屋の片付けをしてると、
昔の小説のノートがゴソゴソと出てきたとき。
そう言えばSFだとか現実世界とは違った世界観をよく書いてた。
たとえば
主人公が眠ると草花の王国に入り込んでいく物語だったり。
主人公がじぶんの村で見つけた扉をくぐり抜けると、実はそこがじぶんたちを監視する世界があって、じぶんたちの村が囚人たちが集められた場所だったという物語だったり。
タイムスリップして犯罪を犯してしまった未来のじぶんを変える物語だったり。
そんなふうに
どこかに飛び出す物語ばかり書いていた。
母親に言われた当時は「ああそう言われればそんなことしか書いてないのかなぁ」くらいに思っていた。
けど、最近になって
「あれは『どこか違う世界に行ったほうが面白いことが起こるはず』と思ってたあらわれかもしれない」
とでも思うようになった。
最近、高校生で海外へ行く人らと話す機会がたくさんある。
ぼくは海外へ行ったことが一度もないから、すごいなぁとか思いながら、どうして海外に行こうと思ったの?と質問をした。
海外の世界を見て、日本と比較したい。
国際援助に興味があって。
海外で勉強したことを日本の発展に役立てたい。
そんな理由を期待していたけど、そういうものはあんまり返ってこない。
ただ、なんとなく。
そういう言葉や似た言葉が返ってくる。
だったら日本でもっと見るべきことがあるんじゃないの?
自分探しとか何か魅力的なことを海外に求める前にさぁ。
高校生の返事にそんなことを思っていたときがあった。
けれども、それほどきっちりした返事なんか求める必要はないのだと思う。
目の前の現実がどうしようもなく面白くなく感じたり、閉塞感を感じたり、救いなんかないように感じるときもある。
現実とは違うところに面白い世界や本当の世界を描いていたあの頃のぼくだってきっとそうだし。
そうやって目の前とは違うところに物語を描いていたけれど、ふとした拍子に目の前にちょっと物語を描いてみたくなることもある。
ぼくがいまやってる、いわゆるまちづくりやら場づくりなんてのも、思い描き、作り上げるという意味では、結局のところ、目の前の世界で物語を描いているようなもんなのだと思う。
どこか別の世界に行くことは、どうしても「逃げ」と見がちで、否定してしまうこともある。
「おい、現実から目を背けるな、向きあえよ」
と。
それは至極真っ当で、真っ当過ぎる意見なのだけど、
逃げたいとき、目の前がどうしてもつまらないときは、
本の中だろうが
じぶんの物語の中だろうが
海外だろうが
ネットの中だろうが
「別世界」へと逃げて行っていいと思う。
ただし
逃げるんなら、全力で。
ぼくはこの言葉が好きだ。
逃げ込んだ世界でもらう勇気もあるはずだし、知恵もあるはずだし、勢いもあるはず。
そしたらきっと、次はいったんあとにした世界に戻ってきて、見えることがあるし、仲間もできる。
いまは、じぶんが存在する世界をひと昔よりずっとたくさん作りやすくなった。
それは、人間が何かを失ったというより、豊かになったんじゃないかな。
人生をかっぽしよう
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