タレントの趣味芸術が盛んらしい。二科展だかなんだか知らないが、今や絵画の値段はその画力だけには留まらず、描き手のバックグラウンドや収入までがモノを言う。
テレビを点けると、「真実解明バラエティー!トリックハンター」を放送していた。マジックのトリックを暴くとか、様々な謎にスポットを当てる番組らしい。今回は、タレントが描いた絵画を値踏みしていた。
芸術関連の仕事に就いてからかなりの歳月を過ごしたが、20年前と少しも変わらないマーケットの有り様には少なからず驚いた。
押切もえや泉谷しげるの絵を見た感想を書かせてもらう。
ウィリアム・ターナー イギリスのテイテギャラリーで見られる。
結論から言うと、もえちゃんもしげるさんも才能には恵まれていないようだ。画商やディーラーがどう言おうが知ったことではない。私自身が芸術史を学び、芸術学部を卒業し、アート・スチューデント・リーグ(Art Students League of New York)やアートインスティチュート(School of the Art Institute of Chicago)での経験を元に話すだけである。
木梨憲武がニュー・ヨークで個展を開いたそうだが、あの手の作品(?)を買おうとする人がいることには、今更ながら驚かされた。中には400万もするピースもあったようだが、自身には冗談にしか映らない。
なるほど、アメリカでも、シュワちゃんの作品や一部のハリウッドスターの芸術品(?)を扱うディーラーも少なくはない。だが、数年後には尽くマーケットから撤退している。
チャリティーで高値がついても、絵画に造詣の深いギャラリーやディーラーは手を出さない。番組の中でもあったが、泉谷しげる氏が亡くなれば、彼の描いた作品もある程度の価値にはなるかもしれない。だが、彼の絵画が本質的に販売に値するだけの資質があるかといえば、大きな疑問符が浮かぶ。おそらく、この記事を読んでおられる貴兄も、私と同意見なのではなかろうか。少なくとも、私は本音を明かしている。
押切もえちゃんの絵については、面白いとか個性的だとかのレベルではなく、絵そのものの描き方を知らない人の絵でしかない。もちろん、個人の感想の域を出ず、反対の意見はあるに違いない。
しかしながら、時間と金を費やして絵画の技法を学び、あるかないかの才能に縋りながらも生活全てを芸術に投資している芸術家のタマゴ諸君からすれば、「ふざけるな!」と言いたいことだろう。
タレントの芸術作品は、それくらい見ていられないほどのガラクタと言える。
千原ジュニアと中川翔子が司会進行をする番組、「世界が変わるバラエティー『アーホ!』」で紹介される作品の方が余程アートと呼べる。いや、むしろ彼らこそが、アーティストと呼ばれるべき存在だ。
テレビ出演している画商のほとんどが、商売の事しか頭にはない。いくら売れるか、いくら儲かるのかが大切で、芸術の質が低下しようが廃れようかどうでもいいわけだ。
テレビ東京で放送中の、「開運!なんでも鑑定団」に出演している骨董商の方が、数百倍も芸術を見る目があり造詣が深いといえる。何かと問題(出演者やスタッフに関してではない)はあるようだが、絶対に逸してはいけないレベルは維持している。流石に、丁稚からの叩き上げだけのことはある。
以前、深夜の放送枠で、タレントが描いたスケッチを採点する番組があった。そのあまりの下手さに、握っていたリモコンをソファに投げつけたことがある。誰が芸術を志そうが勝手だが、仮にもテレビで紹介するなら、俄仕立てのしょうもない落書きを見せるなと言いたい。
タレントの鉄拳氏は、あの番組で一コマ漫画の才能を開花したようだが、彼の場合は稀有なケースだ。アニメを手掛けるアシスタント君の方が、そこいらの芸術家よりも余程素晴らしい絵が描ける。
今後、芸術を嗜もうとする貴兄に、ぜひおススメしたいことがある。アドバイスといえるほど大袈裟なものでもないので、少しでも聞いていただければ幸いだ。
描きたい、造りたい、刷りたい、彫りたいと、芸術における人間の欲求は多岐に渡る。だが、そのどれを選ぶにせよ、最初のステップだけは全く同じ行程を辿る。
そのステップとは、見ることだ。
質屋(最近流行りのブランドショップは知らない)では、今も昔も、後進の者を育てる方法は一つしか無く、それは常に本物を見せることだ。絶対に紛い物を見せないので、それで見識が養われ、おかしな品物(主に偽物、タングステンの金塊とかジルコニアとかイミテーションのロレックスとか、その他諸々)に値段をつけなくなる。芸術においても同じことが言える。
最近は、海外からのマスターピースが展示される度に、芸術など全く興味が無い人でも、話のネタにと美術館に足を運ぶ。そのおかげで、展示場に行ってもろくな時間を過ごせない。結局は、何も見れずに帰ることになる。
芸術品を見るとは、心惹かれる作品を前にして、少なくとも数分から数十分を佇むことを言う。狭い空間に入れられるだけの人数を詰め込んで、まるでベルトコンベアーのように押し流される状態で眺めるようなものではない。
出来れば、そんな展示期間とは別に、心行くまで芸術品を満喫できる時間を作っていただきたいものだ。
東京の上の森美術館でも、近代美術館でも、どこの美術館でも常設展示のコーナーはある。そんな場所へ行って、嫌というほどの時間を使って作品を見て欲しい。そこでは、人に会うことの方が珍しく、貴兄の時間を台無しにすることはない。
なるほど、展示物には限りがある。期待するような作品はないかもしれない。それなら、日本を出て、ニューヨークのメトロポリタン(MET)に行くなり、MOMAに行くなり、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツなど、他にいくらでも美術館はある。
世界から見れば、日本の美術館などは猫の額ほどにも狭い。METなら、全く人と会わない展示コーナーもある。色々な美術館を巡っては、自分だけの場所を見付けて鑑賞に耽るのがおすすめだ。
話は変わるが、冬休みにニューヨークにいた頃だった。一ヶ月の間YMCAに泊まって、休館日以外はMETに通い詰めた。その頃の入館料は9ドルだった。YMCAの中は、臭くて、暗くて、まるで映画に出てくるスキッドロウのような場所だった。
YMCAは60番(東西に走るストリート)近くのウエスト側にあり、METは80番近くのフィフスアベニューにある。METに行くならセントラルパークを斜めに過るのが近道だ。ただ、その軌道上には池があったり、バカでかい岩があったりと面倒くさい。そこで、普通は遠回りをして86番まで上がってからパークを横断する。
当時は若かったこともあり、パークを突き切った。そのおかげで、雪には埋まるは、靴は傷だらけになるはで散々だった。ようやくMETについて階段を登ったところが、その日は生憎休館日だった。
ヒスパニック系の警備員が、私を見ながら開館時間の書かれたドアを叩いて、ガラスの向こうで悪態をついていた。普段から人に意地悪をしたり、怒ってばかりいると、結局は他人に使われるだけで人生を終えることになる。ヒスパニック系人種の哀れさを見た気がした、雪の日のニューヨークだった。
話が飛んだが、芸術を志すなら、とにかく多くの作品を見て欲しい。作風を真似する必用などはないので、好き嫌いにかかわらず、一つでも多くの芸術品を目にして欲しい。芸術史を学ぶのは、好きな芸術家が見付かってからでも遅くない。
押切もえちゃんの絵が好きだという人もいると思う。それが悪いとは言わないが、もっと多くの絵画を見れば、本当に見ていたくなるほどの作品かどうかが分かると思う。
芸術とは、究極の自己満足に過ぎない。だからこそ、他人を魅了して余りある個性と、インパクトと、説得力が必用なのだ。そのどれをも備えていないガラクタを、果たして芸術と呼べるのか?
他人はよくても、私は御免こうむる。