一生ダイビングヘッド。
岡崎なんて大したことない。
1986年、兵庫県宝塚市に生まれる。
岡崎の父弘晄は野球をさせるつもりだった。テニスでインターハイ優勝を経験したこともある母富美代は、当然テニスを勧めた。だが、兄嵩弘がサッカーをやると言ったので、岡崎は一緒にサッカーをやることにした。小学校2年生の時だった。
岡崎は、加入した宝塚FCでなんとDFとして起用された。それでも、岡崎はサッカーをする歓びに取り憑かれ、平日は練習しなくてもいいことになっていたにもかかわらず、学校が終わると宝塚FCの練習場まで自転車で40分をかけて通っていた。
練習が終わると今度はマンションの砂場で兄とサッカーをした。とにかくサッカーの事しか考えていなかった。学校でも、家でも、まさに没頭していた。
宝塚FCの監督である田尻克則は、徹底的に反復練習を叩き込むタイプの監督だった。また、コーチである山村俊一は、岡崎の裏への飛び出しとヘディングの才能に気が付き、低いボールでも足ではなくヘディングでシュートをするように指導した。ストロングポイントがヘディングであると幼いころに教えられた岡崎は、山村コーチから授けられた言葉を座右の銘にする事になる。
「一生ダイビングヘッド」
この言葉は、2010年W杯南アフリカ大会の直前、代表メンバーに選ばれた記者会見でも岡崎が自ら語っている。
夢の2トップ。
中学生になった岡崎は、三田市けやき台中学校サッカー部と宝塚FCの2つのチームに所属することになった。
通常、部活とクラブチームの両方に所属する選手はいない。というより、学校が許してくれない。だが、その時兄嵩弘がすでにその事を学校に了解させ、部活とクラブチームを両立させていた。だから岡崎は「嵩弘と同じように宝塚FCでもやるのか?」と聞かれただけだった。岡崎は言う。
「いま思えば、兄貴が俺の前にいつもいた。常に俺の先を歩いて、道を切り開いてくれていた」
岡崎は中学1年の終わりにはチームでレギュラーを掴む。そして、2年生の時には兵庫県のトレセン(地域選抜)のメンバーに選ばれ、フランス遠征に参加する。そこで岡崎が見たものは、それまでのサッカー観を変える程の衝撃だった。
フランスは、近代育成システムの先駆者でもある。クレールフォンテーヌに作られた国立サッカー研究所は、JFAアカデミーのモデルにもなった。多様な人種が同じ旗のもとでサッカーをしていた。同年代とはいえ、彼らの身体能力は岡崎の想像を遥かに超えたものだった。
高校は名門校である滝川第二高校に進学した。兄と同じレベルの高い名門高校に行きたかったからだ。だが、岡崎は進学を希望した時に、周囲から「あそこはレベルが高すぎるぞ」と止められていた。むしろ滝川第二のサッカー部監督だった黒田和生にすら「レギュラーにはなれないかもしれないぞ」と言われていた。
滝川第二にはAチームからEチームまであった。岡崎があてがわれたのはEチームだった。しかも、ポジションはボランチ。実はCチームにいた兄嵩弘も、FWではなくボランチやSBで起用されていた。この仕打ちは、岡崎兄弟の自信を奪い去るのに十分だった。
だが、岡崎は諦めなかった。何故FWで起用してもらえないのか。それを必死に考えた。「フォワードをやるためにはいま何をすべきか」を常に考え、ボランチをやっていた時でも、前にいるFWの動きを気にしながらプレーするように心がけた。
その1ヶ月後、兄嵩弘は待望のAチームに招集される。インターハイの直前まではBチームにいながら、血の滲むような努力を重ねてAチームに昇格したのだ。
周囲が「体を壊してしまうのではないか」と心配する程の練習をこなし、ようやくAチームに入った嵩弘ではあるが、黒田監督から「試合には出してあげられない」と告げられる。それでも、嵩弘は努力を重ねた。そして、3年生の冬にようやく高校選手権でFWとしてピッチに立つ。その時、2トップのコンビとして隣りにいたのは、1年の終わりにレギュラーの座を掴んだ弟の慎司だった、
後に嵩弘はこう語っている。
「兄として弟にいいところを見せたかったんです。やっぱり、選手権で一緒にピッチに立ちたかった」
その年、準々決勝であの東福岡を慎司のゴールで下した滝川第二は、準決勝で市立船橋に敗れた。決勝進出はならなかったが、夢にまで見た兄弟での2トップで戦えたことが、二人とも何より嬉しかった。
清水からドイツへ。
岡崎は高校3年の時にはチームの主将を務めた。そして、卒業する頃にはヴィッセル神戸と清水エスパルスの2チームから声がかかっていた。岡崎は迷うこと無く清水を選ぶ。理由は「レベルの高い所でプレーしたいから」だった。
だが、同じ年に清水の監督に就任した長谷川健太の評価は低かった。後に長谷川健太本人が語っているが「一番有望視していなかった」のだそうだ。それでも、岡崎に不思議な魅力を感じてはいた。何故か目にとまるものがあり、「まあ使ってみるか」くらいの気持ちで起用すると点を取る。何故かはわからなかったが、なにか惹きつけるモノを持っていることは間違いなかった。
2008年シーズンにはガッチリとレギュラーの座を掴んだ岡崎は、目標としていた年間10ゴールをクリアし、北京五輪代表の監督を務めていた反町康治監督の目に止まり、結局本大会までメンバー入りし続けることになる。
2008年9月にはA代表にも招集され、10月のUAE戦でスタメン出場を果たすが、ポジションはFWではなくトップ下だった。その後もコンスタントに招集をされ続け、FWとして日本代表のレギュラーの階段を駆け上がっていく。
2009年は、フローデ・ヨンセンを主軸にしたサッカーが実を結び、清水エスパルスは一時首位に立つなど、かつての強豪の姿を取り戻したかに見えた。岡崎もFWあるいはウイングとして起用され、14ゴールを奪い活躍する。チームは最終的に7位に終わるが、岡崎自身は清水から10年ぶりのベストイレブン入りを果たす。
代表でも16試合で15ゴールを上げ、IFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)選出のゴールデン・ボール賞に選ばれた。
2010年には大きな飛躍が待っていた。当初多くの国民が期待していなかったW杯南アフリカ大会で、日本代表は決勝トーナメント進出という大躍進を遂げたのだ。
岡崎自身は、直前の親善試合から本来FWではない本田圭佑がトップで起用されるなど、本意ではない試合が続いたが、それでもグループリーグの第3戦デンマーク戦では本田のアシストによりW杯初ゴールを記録。持ち前の豊富な運動量で日本の勝利に貢献した。
その後、新たに就任したアルベルト・ザッケローニのもと、FWとして起用された岡崎は、徐々にストライカーとしての才能を開花させ、日本代表に欠かせない戦力になっていく。
2011年の1月にカタールで開催されたアジアカップでは、グループリーグのサウジアラビア戦で自身3度目の代表戦でのハットトリックを記録した。これは、三浦知良に並んで歴代2位の快挙である。
そして、2011年1月30日。アジアカップで日本が史上最多4度目の優勝を成し遂げたその次の日、VfBシュトゥットガルトから岡崎を獲得したというリリースがなされる。
だが、この移籍には問題があった。清水側はまったくこの事を知らされておらず、しかも岡崎との契約は2011年1月31日までであったため、清水は国際移籍証明書の発行を拒否する。
結果的にFIFAの暫定処置でブンデスリーガに選手登録したものの、実のところ清水エスパルスは現在でも岡崎の退団を公式には発表していない。これは、代理人のロベルト佃の詰めが甘かったという指摘が後になされている。これがキッカケで日本ではゼロ円移籍が問題視され始めた。
シュツットガルトでは主に左MFとして起用された。残留争いをしていたチームが必要としていたのは、岡崎の得点力ではなく運動量と守備力だった。チームは岡崎が加入するとジリジリと順位を上げていき、5月のハノーファー戦では岡崎のブンデスリーガ初ゴールも産まれ、残留を決めた。
翌2011-12シーズンも岡崎はサイドで起用される。26試合に出場したものの、途中出場も多かった。それでも7ゴールを上げ、特に2月のハノーファー戦で決めたバイシクルシュートはシュツットガルトの歴代ゴール4位に選ばれている。
だが、ここからという所で岡崎は負傷にみまわれ、その間にギニア代表のイブラヒマ・トラオレがポジションを確保してしまう。負傷明け後もブルーノ・ラッバディア監督のトラオレへの信頼は厚く、岡崎はついに移籍を決断する。行き先はかつてユルゲン・クロップが指揮したチーム、1.FSVマインツ05だった。
サッカーの母国で夢の中を走る。
マインツを指揮するトーマス・トゥヘルは、チームという構成要素を最も重視する監督だ。 そして、現在彼はアジア人を重用する監督として知られている。トゥヘルは語る。
「トレーニングが好きで、礼儀正しく、グループとしての活動を尊重でき、チームメイトを尊敬できる。彼らの特徴は、我々のチームのスタイルにとても素晴らしく合っている」
トゥヘルはシーズン開始直後こそ岡崎をシュツットガルト時代と同じポジションで使ったが、10月のブラウンシュヴァイク戦で1トップ起用すると、それに応えるかのように岡崎らしからぬ美しいループシュートを含むドッペルパック(1試合2ゴール)を決める。その後も波はあったがゴールを量産し、結果的にシーズン終了時には日独通じてキャリアハイの15ゴールを決める。
翌2014-15シーズンは、開幕戦で早速ゴールを決め、第3節のヘルタ・ベルリン戦で決めたドッペルパックにおいて、奥寺康彦を抜いてブンデスリーガでの日本人最多得点記録保持者になる。このシーズンは、昨シーズンには及ばなかったが、2年連続の二桁特典を上げた。
2015年6月、かねてから噂のあったイングランド・プレミアリーグのレスター・シティに移籍を決断する。実は前年もオファーがあったのだが、残留を争うであろうチームであること、ポジションの確約がされないであろうことなどから断りを入れていた。それでも、2年連続のオファーに岡崎も誠意を感じ、移籍を決断する。
レスターは、2014-15シーズンに実に10年ぶりにプレミアリーグに復帰してきたチームだった。案の定そのシーズンは残留争いに巻き込まれるものの、土壇場での粘りでしぶとく残留を決めた。
しかし、岡崎獲得の僅か4日後、残留の功労者であるナイジェル・ピアソン監督が突如解任される。彼自身にも問題はあったが、息子が起こした問題の責任を取っての辞任というのが表向きの理由だった。そして、後任に据えられたのは「修理屋&壊し屋」として有名なクラウディオ・ラニエリであった。
ラニエリは、いつも最初は前任者の色を残してうまくチームを作りいい成績を残すものの、次第に自分の色を出し始めてチームを壊していくことで有名だった。だから、2015-16シーズンの序盤で、ジェイミー・ヴァーディーがプレミアリーグ新記録となる11試合連続ゴールを達成し、首位を快走していても、誰もその後レスターが優勝争いを演じ続けるなどとは信じていなかった。
だが、レスターはまだ順位表のトップにいる。シーズン開始前に立てた「勝点40獲得」などという目標はとっくの昔に通り過ぎ、3月も半ばを過ぎた現在でもまだ首位にいるのだ。
岡崎は開幕戦でヴァーディーと2トップを組み先発出場。第2節のウェストハム戦ではプレミアリーグ初ゴールを決める。岡崎はその後も昨シーズンのチーム内得点王のレオナルド・ウジョアとポジション争いをしながら、しかし確実に序列を上げていった。
ヴァーディーが大爆発し、岡崎が脇を固めるレスターは、アーセナル、リバプールには敗れたものの、トッテナム・ホットスパー、マンチェスター・シティ、チェルシーなどの強豪を次々と打ち倒していった。
3月14日。目下残留争いのまっただ中にあり、スティーブ・マクラーレンを解任してラファエル・ベニテスが監督に据えたばかりのニューカッスル・ユナイテッドを、レスターはホームのキング・パワースタジアムに迎えた。
前半25分。リヤド・マフレズが蹴ったFKをジェイミー・ヴァーディーが折り返す。その先にいた岡崎は、迷わずバイシクルシュートで合わせるスーパーゴールを叩き込んだ。
この得点がこの試合の決勝点、そして岡崎のホーム初ゴールとなった。各国のメディアがこのゴールを讃え、岡崎をこの試合のマン・オブ・ザ・マッチに選んだ。
監督のラニエリも岡崎に賛辞を送った。そして、シーズン開始前にはカジノでアジア人男性に対して差別的発言で激しく罵ったという「事件」を起こした相棒のヴァーディーも、この試合の後にインタビューで岡崎を讃えている。勿論、とっくの昔に謝罪済みだ。
岡崎が清水でプロとして活躍し始めた頃、関西リーグでサッカーを続けていた兄嵩弘は、両親にプロへの思いを諦めきれないと伝え、単身パラグアイに渡った。その事を母から告げられた岡崎はすぐさま援助を提案するが、母はそれを断った。
岡崎にはわかっていた。兄が弟の先を走っていたからこそ、岡崎慎司は岡崎慎司足り得たのだと。だから、兄は再び前を走ろうとパラグアイという未知の舞台での挑戦を決意したのだと。
だが、その願いはかなわず、兄は半年で帰国することになる。岡崎は、そんな兄の分の想いも背負ってプレーを続ける。
岡崎がドイツへ向かう飛行機を見送る日、兄嵩弘は弟慎司に語った。
「俺たちはずっと、これからも兄弟だ。だから、お前の成功は俺の喜びなんだ」
岡崎は、サッカーの母国で、兄嵩弘に、そして岡崎を見守るすべての人々に喜びを与え続けている。
岡崎はわかっている。「献身的に守備をする」ということの意味を。献身的にやろうと思えば、それは誰にでも出来てしまう。だからこそ、それを「武器」にするつもりはない。
「ゴールを奪う部分で認められたい。そうでなければ上のレベルには行けない。そういう場所に到達したい」
残る試合は8試合。万が一第36節のマンチェスター・ユナイテッドのホーム、オールド・トラッフォードで優勝を決めることになれば、それはプレミアリーグ史上初の出来事になる。あの夢の劇場で優勝を決めた事があるのは、マンチェスター・ユナイテッドをおいて他には無いのだ。
レスターは未だ夢の道を突き進んでいる。そして、そのいつ覚めるともわからない夢の中心に、岡崎はいる。
気がつけば、日本代表通算得点記録も、現Jリーグ副理事である原博実を抜いて歴代3位となった。
目標とする選手は中山雅史。代表通算得点ではとっくに抜き去っているが、それでも自分は中山を超えていないと、謙虚に言い続ける。
代表では常にいじられキャラ。
ヘディングでゴールを奪う度に頭髪を心配される29歳のストライカー。
そんな、どこにでもいる一生ダイビングヘッド。
それが、岡崎慎司。