バスに乗るのなんて何年ぶりだろうか。
子供の頃、小学校に通うのに毎日スクールバスに乗っていた。家が学校から遠いからだ。
…というのは方便で、実は通学エリア分けでたまたまスクールバスが通るエリアの範囲内ギリギリに家があったというだけだ。自分より遠い場所に家がある人も中にはいたが、その人はスクールバスが通るエリアではない地区に住んでいたため、残念ながら歩いて学校へ行かなければならなかった。
スクールバスは切符を買うこともなければ料金が変動することもない。だから、子供の頃の自分は乗っているだけで良かった。何も考える必要は無かった。
大学の頃、地元を離れて初めてバスに乗った。そこのバスはワンマンで、乗ったところに発券機のようなものがあって、そこから番号のついたカードを引っこ抜いて席に座り、降りるときに運転席の上あたりにある電光掲示板に表示された自分の番号を見つけ、書いてある料金を支払って降りるのだ。
そんなことも知らずに、スクールバス感覚で乗ってそのままの勢いで席につこうとした時に、運転手のおっちゃんから「おいアンタ、これこれ」と発券機を指さされて笑われた。自分は恥ずかしかった。「そんなことも知らないでバスに乗ろうとしていたのかよ」と言われたような気分だった。
だから、その日は何もかも調べてからバスに乗った。停留所にバスが来る時間、バスのシステム、バスの色… 久しぶりであることを悟られることがないように、さもいつも利用している常連の客であるかのように振る舞おうと努力した。
果たしてそれは成功した。自分はバスが定刻を若干遅れて到着したことに腹をたてること無く、流れるような動作でステップを登り、発券機からカードを取り、そして何の迷いもなくバスの真ん中辺りに座った。
ここまでは完璧だ。だれも自分が世間知らずのアラフォーであることになど気がついていない。日常生活の中に完璧に溶け込んでいる。やれば出来るんじゃないか。
だが、一つだけ動揺しそうになったことがあった。
バスの最後列の椅子に、バスどころか町でもまず見かけないようなフリル満載のドレスを来た女性とその執事の様な人物が座っていたからだ。
一瞬「何だこの2人は…」と、うろたえそうになった。
執事らしい男ときたら、バスの中だというのに女性を守るかのように日傘を指している。よく漫画で見るような、片目だけのどうやってかけているのかわからないメガネと、中世ヨーロッパの貴族のような立派な髭を蓄えて、女性を優しく見守りつつ、周囲に眼を光らせている。
椅子に座ってから思った。ああいうのには近づかない方がいい。一見非日常に見えるこの風景も、ひょっとしたらこのバスでは当たり前なのかもしれない。こんなことで驚いて、また「こいつ一見さんだな? この2人を知らないとは」みたいになったら困る。自分はこの日常に溶け込むのだ。
その後数人の客が乗り込み、バスが出発する。なあに、目的地まで15分程度我慢するだけでいい。そうすれば、「このバスの日常」から「自分の日常」へと帰ることが出来る。楽勝だ。どうということはない。
そう思って、iPhoneで電子書籍を読み始めた。普段は車を使っているから、なかなかこういうスキマ時間はない。バスに乗っている間にKindleで小説を読む。まるで都会の人間になったかのようではないか。ただ、バスが1時間に1本しか来ないというだけの話だ。そこにどれだけの違いがあるというのか…
そうして走りだすと、少しして電話が鳴った。自分のではない。バスに乗っている人誰もが自分の電話を確認するが、誰の電話なのかわからない。コール音は鳴り続けている。
まさか…と思い振り向くと、例の執事が音も立てずに通路を歩き、運転手になにやら耳打ちした。と思ったら次の瞬間バスのモニタに何者かの顔が映し出された。
ガッチリとした体型で、やや白髪の混じった、だがしっかりと手入れされた髪、そして人を射抜くかのような鋭い眼光と、それを打ち消すかのような白い猫を抱いた中年の男。
何が起きているのかわからなかった。これも「このバスの日常」なのか?
「一体どこへ行こうと言うのかね?」
モニタの中の男は開口一番そう言った。
「お前は何をしているかわかっているのか?」
すると、執事が例のフリフリドレスの女性から何やら耳打ちされて、代わりに答えた。
「お嬢様は、この結婚はしたくないとのことです。これからは、旦那様の庇護のもとではなく、自分で生きる道を決めたいと申しております」
その言葉を聞いて、モニタの男の眉がピクッと動いた。
「自分で生きる? お前がか? どうやって生きる。メイドがいなければ着替えもできぬお前が、どうやって外の世界で生きていこうと言うのだ?」
執事は答える。
「とにかくお嬢様は自分の力で生きていくと申しております。わたくしはお嬢様を守る人間として、お側にお仕えしております。お嬢様が見知らぬ土地で生きていくと決めたのなら、わたくしがお守りせねばなりますまい」
モニタの男は激昂する。
「お前は誰に雇われていると思っている! 娘の世迷い事に惑わされていないで、はやく戻ってこい! 先方もお待ちかねだ。お前達は私の顔に泥を塗るつもりなのか?」
執事は顔を真っ青にしながら、それでも前を向き答える。
「旦那様、申し訳ありません。お嬢様はどうしても今日のお顔合わせには出たくないと申しております。わたくし、もう17年お嬢様にお仕えしておりますが、お嬢様のその気持ち、痛いほどわかります。旦那様の顔を潰すような真似はしたくはありませんが、お嬢様が…」
モニタの男が執事の言葉を遮る。
「ええい! お前の話など聞きとうないわ! 今日の会合にはお前だけではなく私の未来もかかっておるのだ。なんとしても戻ってきてもらうぞ」
突然バスの運転手に無線が入る。
「え? 本気ですか? しかし… そんな事が… はい…分かりました…」
その無線を受けた運転手は、明らかに戸惑いながらウインカーをあげた。ここではこのバスは曲がらないはずだ。というより、停留所から目的地までは一直線のはずなのに、どうしてここで曲がるんだろう?
「まさか旦那様…!」
「そうだ、ここへ来てもらう。私の手から逃れられると思っていたのならあまりにも浅はかだったな。バス会社を買収することなど私には造作もない事だ」
え? このバス会社を買収? ここって確か一度会社更生法を申請している地方のバス会社が運営している路線だけど、そこを買収したというのか… 娘を連れ戻すためだけに?
「そのまま私のいるゴルフ場まで来るのだ。分かったな。先方には少しだけ遅れると伝えておく。なあに、あと2時間ほどすれば全ては丸く収まる」
2時間? 一体どこへ連れて行こうと言うんだ? というより、これはもうバスジャックの域なんじゃないのか? このまま自分たちはこのおかしな連中の騒動に巻き込まれて、どことも知れないゴルフ場まで拉致されるのか?
おかしい… 「このバスの日常」に溶け込むために努力してきたのに、わけのわからない連中にそれを台無しにされようとしている。自分は何のためにあんなに事前準備してきたと言うんだ。バスに乗るまでは完璧だったのに…
フツフツと怒りが沸いてきた。モニタの男と執事はまだ言い合いを続けている。当事者であるはずの女性は、涼しい顔をして窓の外を見ている。まるで自分には何も関係ないかのように。それが余計に自分を苛立たせた。
「いい加減にしろ!!!」
気がついたら席を立ち、執事とモニタの間にいてそう叫んでいた。
「何なんだよお前らは! 俺たちをどこに連れて行こうと言うんだよ!! 俺たちの日常をなんでぶち壊すんだよ! 政略結婚だかなんだか知らないけど、そんな馬鹿馬鹿しいことのために何の関係もない俺たちを巻き込んでどうするんだよ!」
バスにいる全員が驚いて自分の顔を見ている。もうここは非日常だ。かつては、自分が創りだした非日常の世界。逃れようと努力して、今度こそは関わるまいと思っていた世界に、自ら飛び込んでしまった。だが、もう止められなかった。
「運転手! アンタもアンタだよ! アンタの仕事は何なんだよ! 乗客の命を守るのがアンタの責務だろうが! それがなんだ? 会社が買収された? そんなこと知るかよ。アンタの握っているハンドルには俺達の命がかかっているんだ!!」
モニタの男が自分を睨みつけて言う。
「下らないことで邪魔をするな。お前などに私の苦悩がわかるはずもない」
自分はそのセリフを聞いてますます怒りが湧いた。
「下らないだと!? 俺は日常の話をしているんだ! このバスと、この街と、俺という人間の日常の話を!!!!」
主演:堺雅人
以下、白黒反転言い訳。
夢というものは意味がわからないもので、最初の自分の独白は夢じゃなくて自分の過去の話なんだが、後半は夢の内容そのままである。
とはいえ、自分が激昂したところで夢が終わってしまったので、オチはスカパーのCMのノリを持ってきて無理やりに終わらせた。
正直言って後悔している。