卒業式シーズン真っ只中ですね。もう終えた学校も多いことでしょう。
ところで、起立!礼!着席!校歌斉唱!などといった号令に合わせ、生徒全員がバッと動く。
これって、軍国主義ですか?軍国教育ですか?
私は違うと思います。
というのも、ヨスさんがこんな記事を書かれていたんです。
言いたいことはわかります。たしかに、小学生に対してその指導は行き過ぎているかもしれません。
だけど、それを軍国教育だというのは明らかに言い過ぎです。
全体が揃うとかっこいい。理由なんてそれだけ。
私の学校は、運動会の入場行進こそたくさん練習しますが、といっても体育の授業と4日間にわたる予行のときだけです。一ヶ月かけて練習とか絶対にしません。
この行進を見た人は鳥肌が立ち、この行進を見るためだけに学校を訪れる方も少なくないとか。
卒業式など式典の練習は一回のリハーサルだけ。その一回だけで全体がバッと揃うんです。起立、礼、着席の流れでは、体育館に風が吹くとも言われます。
全体がバッと揃ったらかっこいいじゃないですか。式典や運動会の行進でダラダラ起立したり歩いたりしてるのって超ダサい。
理由なんて、ただそれだけです。
これのどこが軍国教育なんですかね。今が21世紀とか関係ない。
そんなこと言ったら、ほとんどのことを勉強で測ろうとする今の教育システムにも問題があると思うし、自分の時間を切り売りするだけの働き方にも疑問を抱きます。
私の学校も軍国主義だの言われることがありますが、全然軍国主義なんかじゃないですよ。普通の学校と同じです。運動会の入場行進がそう思わせているのだとしたら心外ですね。
挨拶がちゃんとできない人って、ダサい。せめて会釈くらいはするべきだし、礼儀ってものがあるでしょう。それと同じレベルのことです。
男尊女卑という考え方には断固反対ですが、そもそも身体つきが違うんですから、礼の仕方とか座り方に違いがあるのは当然でしょう。それを男女差別というのは違う気がします。
男の子なら男の子、女の子なら女の子で、それぞれ最も美しく見える座り方や礼の仕方がある。いかにかっこいいかどうか、美しいかどうかですよ。
何がかっこよくて何がダサいのかを学んでいるだけです。
その学校の考えに合わないなら、「私はこう思うけどね」という思いを持ち続けながら生きていけばいい。義務教育の間はそうするしかない。高校以降は、自分の価値観と合う学校や職場に進めばいいだけの話です。
卒業式の練習くらいで個性は潰れない
これさえも洗脳だとか思われそうなんですけど、そんなことはないです。いや、そうなのかもしれないけど。笑
ともかく、違和感があって受け入れられなければとっくに学校辞めてます。
別に、バラバラでもいいとは思いますよ。だけど「それではダサいよね」と私は思うんです。
というか、この程度で潰れる個性ってなんなんですかね。
学校は、人と同じになるような方法しか教えてくれない。だったら、自分で人と違うようになる方法を探すしかない。
私も「普通になれ」ってたくさん言われて育ってきました。でも、普通になったら個性が失われかねないって幼心にもなんとなくわかっていたらしく、小さい頃から「絶対に普通にはならない」という強い意志を持ち続けてきました。
そうやって生きてきたら、いつしか本当に普通じゃなくなっていました。笑
もちろん、普通じゃないことに苦しめられることはたくさんあります。普通になりたいと切望した時期もありました。
そりゃ「私が普通じゃないからこうなるんだ」と普通になれなかった自分を呪うことだってあります。こうやって揺れたりしていますが、それでも平常心のときは「普通じゃなくてよかった」と思っています。
中1の頃からいろんな人に「もっと普通になれ」「普通に」「普通に」って言われてきたけど、私だって普通じゃないことに苦しんでいて、普通になれるもんならなりたいんだよ。今だって。でも、どうやってもうまくいかなかったからこうするしかなかったんだよ。
— 西村純(にしすー)@中学生プロブロガー (@nisi_su_) 2016年3月8日
あ、ちなみに、ここでの「普通になれ」というのは、「周りと馴染めるように努力しろ」「みんなと一緒であれ」という意味です。
学校はそもそも集団のなかで生きていく方法を教える組織なんだから、そこに「群衆としてじゃなくて一人の個として見てくれ!」なんていうのはナンセンスです。
そんなに個人として見てほしいなら、自分でそういう道を選びとっていくしかありません。自分の子供はそこまで考えられないというのなら、親がそう教育するしかないですよ。
テンプレート通りにしかやらないから無駄になる
卒業式とか入学式とかの式典って、親のためだけのものじゃないですよ。
卒業してしまう憧れの先輩に第二ボタンをもらう夢のシチュエーションがなくなっちゃうじゃないですか!!←え
卒業式の風習が残ってる国は韓国と日本だけ?いいじゃないですか。なんで他の国と同じにする必要があるんですかね。
卒業式をしている数時間で他のことができるというのは、そうだと思います。
だけど、せっかく続いてるんだから、やめなくてもいいんじゃないかな。
時間の使い方は自分で決めればいいじゃないですか。そんなに無駄だと思うなら、仮病使うなりして休めばいい。「卒業式は寝るもんだ」って言って、自分の卒業式で寝てた先輩もいますし。
というかね、テンプレート通りにやるからつまらない卒業式になるんですよ。
限られた範囲で工夫していけば楽しい卒業式になるんじゃないですかね。
そこまで敏感にならなくてもいいんじゃない?
「男女差別とか個人を見ようとしないとか、みんなそんなことに敏感になりすぎじゃない?」
これが、私の正直な感想です。
スキャンダルを起こした政治家やタレントをここぞとばかりに叩いてるのとなんら変わらない。少なくとも、私の目には同じに映ります。
雇用賃金とか離婚したら6ヶ月経たないと結婚できないとか、そういうことならわかるんですけどね。嫁と呼ぶか妻と呼ぶかとか、式典の際の座り方とかまで指摘されちゃうと、それこそ逃げ道がない。
いろんな考え方の人がいていいと思うし、基本的に私はそういうスタンスの人です。でも、だからこそ最低限の大枠は守るべきだとも思っています。
私は学年でも浮いてるし、友達も少ない。だけど大掃除や挨拶はちゃんとするし、運動会とかのイベントや生徒会では何かできることを探して頑張る。
これでも、社会に適合できないんじゃないかっていう不安はありますよ。だから、そうなったときのために逃げ道を作ろうと試行錯誤しているわけです。
まとめ
最低限の大枠と個性とはまったく別の次元にあります。それをまとめて語るなんて本当にセンスがない。
学校はそもそも集団のなかで生きていく方法を教える組織です。それは絶対に変わりません。だったら群衆としてじゃなくて一人の個として見るべきなのは、社会じゃなくて親です。
また、効率を求めるべき部分とそうでない部分を区別したほうがいいと思います。
現代において、私たちは何に対しても効率を求めすぎている。結果を求めすぎている。
仕事に関して効率を求めるのは当然のことと言えるでしょう。しかし、卒業式に効率も非効率もありません。式典には人間の心理的なものが関わっているんです。
もちろん、卒業式をしないことで心の豊かさが損なわれるとか言うつもりは毛頭ありません。ただ、節目節目できちんと区切りをつける。これは、日本に古来から伝わる武道にも見られることです。
現代の風潮と合っていないのに、考えなしに続けるのは問題だと思います。全ては時代とともに変化していくべきだと私も思います。
だけど、卒業式までなくしてしまっていいんですかね? それってさみしくないですか?
それを素晴らしいと感じている人がいるから、続いているんです。授業の開始と終わりにする「起立、礼、着席」という一連の流れも、卒業式に二部合唱や三部合唱で歌う「仰げば尊し」も、運動会で全校生徒が一斉に迫力ある行進をするのも。
「仰げば尊し」って最近では歌われないんでしたっけ?残念ですね。
昔から残っているものは、何かしら素晴らしい要素があるから残っているんです。意味のないものはもうすでに淘汰されています。それも自然と。
やたら男女差別や個人の心理に敏感になって、本当に大事なことを見落としていませんか?
ひつじのヒトコエ
かっこいいのとダサいのだったら、絶対かっこいいほうがいいよね!