2016年03月13日(日) 06時37分33秒
自作解説「原発推進組曲」
テーマ:オリジナル動画
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外山恒一の活動に資金協力を! 協力者向けに活動報告誌『人民の敵』を毎月発行しています。詳しくはコチラ。
リテラシーというか現代文読解能力というか、あるいは読解に必要な(この場合はJポップに関する文化的)教養を欠いた者がネット上で好き放題に語り散らしている御時世であるから、たまには“自作解説”という野暮も必要だろう。
3・11から間もない時期にYouTubeに発表した、「原発推進組曲」と題した“替え歌メドレー”について以下、今さら解説する。
動画の冒頭には、これは私の歌唱による替え歌ではなく、長渕剛の「俺らの家まで」の一部がそのまま流れる。タイトルや註釈の文言の表示にまず20秒ほど必要で、せっかくだから何かBGMをつけよう、もちろんテーマにふさわしい内容の歌詞がよい、さらにもちろん本来はそういう歌ではない方がオカしくて良い、ということで選曲したものである。後に“反原発・長渕派”の恐ろしいインボーを展開することになるとは、この時は思ってもみなかった。
歌詞は「分かってるさ、君の兄貴が賛成してないのはね。君の立場も分かるし、兄貴の云いぶんも分かる」というものだ。原曲は原発の歌ではもちろくなく、単なるラブソングである。だが原発テーマの作品の冒頭に流れるとやっぱりオカしい。かつ今回の作品は表面上は“原発推進”のスタンスにしてあるわけで、“こっち側”ではなく“あっち側”が“賛成してない”設定もピッタリである。
1曲目の原曲はRCサクセションの「ドカドカうるさいR&Rバンド」である。
“原発問題で替え歌をやる”ならまず忌野清志郎を冒頭に持ってこないわけにはいかない。88年に日本で最初に反原発運動が盛り上がった時(広瀬隆ブームというやつだ)、キヨシローはこれに呼応し、洋楽ロックの往年のヒット曲に日本語の(多くは原詞と無関係な)社会派メッセージ詞をつけた曲だけで構成された“替え歌アルバム”『カバーズ』を発表しようとしたが、反原発の立場を鮮明にした数曲も含まれていたため、発売元の東芝EMIが親会社で原発メーカーである東芝に気兼ねして、発売直前に発売中止の決定が出て(数ヶ月後の敗戦記念日に別のレコード会社から発売)、日本ロック史に残る一大騒動となった。この一件に腹を立てたキヨシローは覆面バンド・タイマーズを結成し、さらに事態を面白くエスカレートさせて最高だったのだが、そこらへんは各自自分で調べなさい。
とにかく、“原発問題で替え歌をやる”なら最初にキヨシローなのは、常識と良識のある表現者にとっては他に選択の余地などない単なる“正解”なのである。問題は、どの曲を選ぶかだ。
キヨシローが作った反原発(替え歌)ナンバーである「サマータイム・ブルース」や「ラヴ・ミー・テンダー」をさらに替え歌にするなどは下の下だ。替え歌なんだから、元の曲は原発とは何の関係もないものでなければならない。そしてこれはこの後のすべての曲に関して云えることだが、良い替え歌を作るための最大のコツは、“元の歌詞をなるべく変えない”ことである。さらにはもちろん、原曲が一定知られたヒット曲、もしくは少なくとも教養人なら知ってなければならない“スタンダード・ナンバー”でなければならない。
何かないかといろいろ探した結果、「ドカドカうるさいR&Rバンド」を選んだ。“ヒット曲”ではないが、RCサクセションの作品中では知名度の高い曲の1つである。RCはサザンと双璧をなす日本の2大ロックバンドであり、健全な常識人ならビートルズやローリング・ストーンズやRCやサザンの代表曲はそれぞれ10数曲ずつは知っていなければならず、RCでは「キモちE」とか「ドカドカうるさいR&Rバンド」は当然その“10数曲”に入る。
さて歌詞である。
この曲に目をつけたのはまず元詞の「街じゅうのガキどもにチケットがバラまかれた」の「チケット」のところを「セシウム」とかに替えればいいな、と思ったからである。そこからスタートして他の箇所をそれに合うように替えていく。タイトル部分である「ドカドカうるさいR&Rバンドさ」のところは特に重要だが、まあ放射能汚染に不安が拡がるだろうことについて、「ガタガタうるさい一般庶民だ」と替えたのは私としてはあまり満足がいってない。「一般庶民」がどうも言葉として落ち着きが悪いのだが、おおよそそういう意味で、語呂的にメロディに合う言葉を他に思いつかなかった。
「ツアーがどこに行くのか誰も知らない」の部分は、放射能汚染された農作物が「どこに行くのか誰も知らない」ってふうに替えればよかろう(最終的には「オレは知らない」にした)。
そんなふうにいったんおおよその“設定”が決まると、さまざまの箇所で“上手い替えかた”が思い浮かぶ。印象的な「子供だましのモンキー・ビジネス」、「よってたかって分け前をあさる」、「まともな奴は1人もいないぜ」の部分はまさにそのまま使える箇所だが、替え歌として分かりやすくするためにあえて「電気ビジネス」とした。「ホテルをうろつく女を誰かがヨロシクしてるぜ」の部分、ここは「ヨロシクしてるぜ」を残したい。何を「ヨロシクしてる」ことにすれば今回の替え歌の設定に合うか? やはり「安全基準」だろう。「ヨロシクしてる」主語は「誰か」ではなく「政府」だ。メロディに文字数を合わせる必要もあるし、最終的にはここは「気休めの安全基準を政府がヨロシクしてるぜ」となった。
「バカでかいトラックから機材が下ろされ」という原曲の歌い出しもなるべく残したい。とくに「バカでかい云々」という強烈な冒頭フレーズは残したい。この場合、「バカでかい地震」もしくは「バカでかい津波」とするしかなかろう。「バカでかい津波」とすることにし、それで非常用発電設備という「機材」が壊されて、今回の事故は始まったのだから、替え歌の歌い出しとしても申し分ない。
これだけ元詞の印象的な語句やフレーズを残せれば、替え歌としては充分上出来である。残った部分は元詞と無関係にオリジナルに創作してももう問題ない。
2曲目は「プカプカ」の替え歌である。ディランIIというグループのこの71年の曲は、日本フォーク史におけるスタンダード・ナンバーの1つだが、これを2曲目にしたことにとくに深い意味はない。“イヤミったらしい原発推進の歌”に作り替えやすい元歌詞をいろいろ探していて、「♪おれのアンコ(あの娘)は何々が好きで」というリフレインを「原発が好きで」に替えてはどうかという、とくに斬新でも何でもないありきたりな思いつきにすぎない。「♪おれのアンコは何々(タバコ、スウィング、男、占い)が好きでいつも云々(タイトルになってる“プカプカプカ”その他の擬音)」という元詞だから、その擬音のところはもうメロディも無視して原発推進派の決まり文句を並べ、歌うのではなく語ればいいだろう、と。「遠い空から降ってくるっていう幸せってやつが云々」を「放射能ってやつが云々」と替えたのも、まあ“ヤッツケ”である。
全体の構成としても、RCでまずハイテンションで始めたのを、いったん盛り下げるための穴埋め的な曲として、いろいろ作ったうちそういう役割を果たしうるものを2曲目に置いた、という以上ではない。
3曲目はサザンの「TSUNAMI」である。
阪神大震災の時にはクールファイブの「そして神戸」をラジオなどでかけるのが自粛されたり、あるいは麻薬その他でミュージシャンが逮捕されるとその作品が店頭から回収されたりする後進国・日本のいつもの光景にはウンザリしており、今回も案の定「TSUNAMI」が自粛となったので(自粛そのものは仕方ないとしても、わざわざそのことを宣言せざるを得ないこの後進国の同調圧力が不愉快だ)、絶対にこの替え歌メドレーには「TSUNAMI」を入れなきゃいかん、とこれは最初から決めていた。
問題は上手く替え歌にできるかどうかである。
で、元詞を見てみると「とめど流る清か水よ、消せど燃ゆる魔性の火よ」とあるではないか! 「流る」を「流す」に替えて冷却水の意味にすればそれだけでもう他に何も替える必要がない。
そもそも桑田の書く歌詞は1行1行が断片的なフレーズで、歌詞集が『ただの歌詞じゃねえか、こんなもん』(新潮文庫)と題されてさえいるように、内容ではなくメロディやリズムに乗るかどうかが最大に重視されており、そこがまさに“日本語ロック史”におけるサザンの大発明、画期的な偉業でもあるのだが、必然的にカッチリとした物語性が薄く、つまりもともと替え歌に向いてない。今回、「TSUNAMI」は“とにかく入れた”というアリバイさえ作ればよいのだし、せっかくだから「津波」という単語が出てくる部分は何とか残して使うとして、それで充分である。「♪とめど流す清か水よ、消せど燃ゆる魔性の火よ」と歌い始めて、いきなり強引に「津波云々」の部分につなげて、オチをつけて終わり。
4曲目は山本譲二の「みちのくひとり旅」だ。
“東北の歌”を何か入れたいと思ったら、誰だってまずコレを思いつくはずの国民的大ヒット演歌である。で、元詞はどうか?
サビに「たとえどんなに灯りが欲しくても」とある! 何と! これはそのまま“原発ナシでやっていけるんですか?”という原発推進の国賊どもの定番の脅迫フレーズにつなげられるではないか! そもそもサビの歌い出しが「たとえどんなに恨んでいても」である。良識ある人々は誰でも原発推進派を恨んでいる。“しかしそれでも原発は必要でしょう?”という奴らの開き直りにつなげられる、できすぎた元詞である。
こんなにハマるサビができれば、あとは簡単である。推進派の売国奴どもが開き直る歌になるわけだから、その前提として、一応“謝罪”の方向のAメロ、Bメロがあるほうが笑えるだろう。推進派の米帝の手先どもが被災地を神妙な顔つきで回る“みちのく土下座旅”だ。元詞に出てくる「月の松島、しぐれの白河」という地名の織り込みも活かしたい。形容詞の部分はどうでもいいが、「松島」ではなく「福島」、「白河」ではなくやはりギリギリ危なかった「女川」あたりがふさわしいか。
“土下座旅”の描写だが、Aメロ部分の元詞をよく見ると「その場しのぎのなぐさめ言って、みちのくひとり旅」とある! 替える必要がない! 「その場しのぎのなぐさめ言って、みちのく土下座旅」で決まりだ。
これまたここまで原曲の印象的な箇所を残せればあとは好きに創作していい。「ここで一緒に死ねたらいいと、すがる涙のいじらしさ」という歌い出しも、「ここで一緒に死ね」と被災者に罵倒されている東電職員の図、とすることを思いつき、あとはテキトーに平身低頭のノリで作っていって、しかしサビで“そうは云っても本当に原発ナシでやっていくおつもりですか?”と得意の恫喝にかかる。
我ながら傑作だと思う。
5曲目は山口百恵の「いい日旅立ち」で、これまた誰でも知ってる国民的大ヒット曲。
単にこの頃ストリートミュージシャン稼業でなぜかヘビーローテーションで歌っていたもので、せっかくだからこれも替え歌にできないかと、半ばムリヤリに完成させたのだが、いざやってみると、このメドレー中では前曲の「みちのくひとり旅」と並ぶ思わぬ傑作に仕上がった。
手順としては、“なるべく元の歌詞を残す”という原則にしたがって、まずはサビの「ああ日本のどこかに私を待ってる人がいる」を、どういう設定の歌にすれば残せるか、と考える。主体はあくまで原発推進派である。原発推進派の“私”を待ってる人が日本のどこかにいる……これはやっぱり“誘致”ネタだろう。“私”はつまり、経済的に疲弊した日本じゅうの田舎に原発を売り込む“死の商人”である。
サビをほぼそのまま残す方針である上、メロディがはっきりしていて“どう聞いても「いい日旅立ち」”になるから、これはもうサビに至るまでは好き勝手にやってよい。「破産間近の田舎町に向かい『ひとつ原発いかが?』と持ちかける」と元詞から残してあるのは「間近」と「向かい」の2単語のみだが、暗いメロディと相まってブラックな雰囲気で我ながら素晴らしい。
サビは「ああ日本のどこかに私を待ってる人がいる、いい日旅立ち」までそのまま残した。続く「夕焼けをさがしに、母の背中で聞いた歌を道連れに」は「聞いた何々を道連れに」だけ残し、「札束を抱えて、偉い学者に聞いた嘘を道連れに」としたが、これまた我ながら上手い思いつきだと思う。
私はこのメドレーの中でこれが一番お気に入りである。
私としては一番聴いてほしい、暗くブラックな大傑作が2曲続いたことだし、さてそろそろアップテンポに盛り上げて締めくくりたい。
これまたこの“替え歌メドレー”製作を思いついた当初から絶対に入れたいと思っていたハマショー(浜田省吾)の「マネー」である。もちろんこんな恥ずかしい後進国の土人ロックの典型ナンバー、私が好きな曲であるわけがなく、今回のテーマに使い勝手の良いフレーズが元詞にたくさんありそうな予感がした(元詞は知ってるわけだが、替え歌を作ることを意識した状態で聴き知ってるわけではないから、本当にそうかどうかは改めて検討してみないと何とも云えないわけだ)からである。
改めて歌詞を見てみるまでもなく、もちろんあの有名なフレーズは念頭にあった。「いつか奴らの足元にビッグマネー叩きつけてやる」である。“札束で顔をひっぱたく”のが人民の敵・推進派のいつものやり口である。これまた“誘致”ネタになるだろうことは、いざ取り組む前から予想がついていた。
設定を考える。
「“いつか”奴らの足元にビッグマネー叩きつけてやる」ということは、“今は”それができずに悔しい思いをしている、という設定にならなければいけない。たしかに原発事故の直後である2011年当時の“今”は、誘致など論外だろう。しかも推進派の非国民どもは、それは本当は原発を必要としている人たちがいるのに、左がかった反対派どもが不安を煽って邪魔をしているのだ、などと恥知らずで的外れで許しがたい責任転嫁をしているものである。
元詞の歌い出しを見てみる。「この街のメイン・ストリート、わずか数百メートル、さびれた映画館とバーが5、6軒」。おおっ、まさに原発の誘致を持ちかけるにピッタリな、疲弊した地方都市ではないか。しかし実際には原発が建てられてしまう地域はもっと悲惨なことになっているのが普通である。もっと悲惨にしよう。「メイン・ストリート」は「数十メートル」に替え、「さびれた映画館」は「つぶれたコンビニ」に替え、「バー」は「1、2軒」に替えた。
元詞は「ハイスクール出た奴らは次の朝バッグをかかえて出てゆく」だが、「奴らは」だけ残し、あとは“設定の説明”に回して「漁協・農協の奴らはそれでも原発をなかなか建てさせてくれない」とした。その理由はもちろん、反対派どもが不安を煽るからである。元詞を無視して、そのままそういう“設定の説明”を続ける。田舎町に残る人々は「心ごまかしているのさ」という元詞は活かして、田舎者どもは本心では原発を建ててほしいはずなのに、「広瀬(隆)や小出(裕章)のデマに惑わされ、心ごまかしているのさ」とした。
サビの「Money, Money makes him crazy. Money, Money changes everything. いつか奴らの足元にビッグ・マネー叩きつけてやる」は、「him」を「you」に替えただけで、そのまま使用した。
「マネー」で終わってもよかったんだが、この“替え歌メドレー”を着想してほぼ完成し、しかしとくに前記の“「ドカドカうるさいR&Rバンド」のところは「ガタガタうるさい一般庶民」でいいのか”問題や、やっぱりあと1、2曲入れたいなど、さらに完成度を高めようとして試行錯誤しているところに例の、斎藤和義の自作替え歌「全部ウソだった」が発表されて話題になった。
先を越された、と思った。と同時に、その斎藤和義の替え歌の出来を見て、そもそも私はかれこれ20年来、ミュージシャンだのアーティストだの、さもセンス・エリートでございという顔をして、いざ社会派っぽいことを表現しようとするとセンスのカケラもない、口ほどにもない奴らだとバカにしきっているわけだが、案の定、何のヒネリもない凡作だった上に、しかも88年時点でとうに偉大なキヨシローが反原発を歌ってロック史に残る大騒動を巻き起こしたことを忘れたフリして「オレたちはダマされてた」的な無責任きわまりない反革命ソングだったので、こんな程度が日本ロックの水準では世間様に顔向けできないではないかと他人事ながら怒りを燃やした。まだ出来に納得いかないところもあるが、斎藤和義のに比べたら圧倒的に高水準だし、もう発表してしまおうと決めた。
が、せっかくなら斎藤和義の替え歌も何か入れちゃえ、とイヤミで作ったのがメドレーのラストの「大丈夫」の替え歌である。
つまりこれも順序としては、“何か斎藤和義の曲を”という“ミュージシャン縛り”がまずあり、その特定のミュージシャンの作品の中から替え歌にできそうなものを選ぶという、冒頭のキヨシロー作品と同様のものになる。が、斎藤和義のいくつかのヒット曲の歌詞をざっと見て、これしかないとすぐに「大丈夫」を替え歌にすることに決めた。
だって原発推進の歌で、「大丈夫」とはこれまたハマりすぎではないか。「大丈夫、なるようになるのさ」、「いつでもそうやって笑ってたじゃない?」、「もう忘れましょう」などなど、“原発推進派が云ってる”と仮定すると笑えるフレーズだらけなのである。
そういうフレーズをなるべくそのまま残し、あとは“ヤッツケ”だ。テキトーに作ったが、ハマショーで締めくくるより余韻が出ていい感じにもなった。原曲では最後は「ルルル……」とハミングでフェイドアウトしていく。これに当時、私が“表向きの店長”をやっていた福岡市のBARラジカルという怪しい飲み屋の“真の店長”が横から、「そこ、時々“ベクレル”って歌ったら?」とさすが真の店長を務めるだけのことはある画期的に不謹慎なアイデアを提供してくれた。
とまあ、おおよそそんなふうにして「替え歌メドレー・原発推進組曲」は完成した。
ちなみに動画のラスト、今は存在しないBARラジカルの宣伝等の部分でBGMに流れるのがRCサクセションの「サマータイム・ブルース」である。
外山恒一の活動に資金協力を! 協力者向けに活動報告誌『人民の敵』を毎月発行しています。詳しくはコチラ。
リテラシーというか現代文読解能力というか、あるいは読解に必要な(この場合はJポップに関する文化的)教養を欠いた者がネット上で好き放題に語り散らしている御時世であるから、たまには“自作解説”という野暮も必要だろう。
3・11から間もない時期にYouTubeに発表した、「原発推進組曲」と題した“替え歌メドレー”について以下、今さら解説する。
動画の冒頭には、これは私の歌唱による替え歌ではなく、長渕剛の「俺らの家まで」の一部がそのまま流れる。タイトルや註釈の文言の表示にまず20秒ほど必要で、せっかくだから何かBGMをつけよう、もちろんテーマにふさわしい内容の歌詞がよい、さらにもちろん本来はそういう歌ではない方がオカしくて良い、ということで選曲したものである。後に“反原発・長渕派”の恐ろしいインボーを展開することになるとは、この時は思ってもみなかった。
歌詞は「分かってるさ、君の兄貴が賛成してないのはね。君の立場も分かるし、兄貴の云いぶんも分かる」というものだ。原曲は原発の歌ではもちろくなく、単なるラブソングである。だが原発テーマの作品の冒頭に流れるとやっぱりオカしい。かつ今回の作品は表面上は“原発推進”のスタンスにしてあるわけで、“こっち側”ではなく“あっち側”が“賛成してない”設定もピッタリである。
1曲目の原曲はRCサクセションの「ドカドカうるさいR&Rバンド」である。
“原発問題で替え歌をやる”ならまず忌野清志郎を冒頭に持ってこないわけにはいかない。88年に日本で最初に反原発運動が盛り上がった時(広瀬隆ブームというやつだ)、キヨシローはこれに呼応し、洋楽ロックの往年のヒット曲に日本語の(多くは原詞と無関係な)社会派メッセージ詞をつけた曲だけで構成された“替え歌アルバム”『カバーズ』を発表しようとしたが、反原発の立場を鮮明にした数曲も含まれていたため、発売元の東芝EMIが親会社で原発メーカーである東芝に気兼ねして、発売直前に発売中止の決定が出て(数ヶ月後の敗戦記念日に別のレコード会社から発売)、日本ロック史に残る一大騒動となった。この一件に腹を立てたキヨシローは覆面バンド・タイマーズを結成し、さらに事態を面白くエスカレートさせて最高だったのだが、そこらへんは各自自分で調べなさい。
とにかく、“原発問題で替え歌をやる”なら最初にキヨシローなのは、常識と良識のある表現者にとっては他に選択の余地などない単なる“正解”なのである。問題は、どの曲を選ぶかだ。
キヨシローが作った反原発(替え歌)ナンバーである「サマータイム・ブルース」や「ラヴ・ミー・テンダー」をさらに替え歌にするなどは下の下だ。替え歌なんだから、元の曲は原発とは何の関係もないものでなければならない。そしてこれはこの後のすべての曲に関して云えることだが、良い替え歌を作るための最大のコツは、“元の歌詞をなるべく変えない”ことである。さらにはもちろん、原曲が一定知られたヒット曲、もしくは少なくとも教養人なら知ってなければならない“スタンダード・ナンバー”でなければならない。
何かないかといろいろ探した結果、「ドカドカうるさいR&Rバンド」を選んだ。“ヒット曲”ではないが、RCサクセションの作品中では知名度の高い曲の1つである。RCはサザンと双璧をなす日本の2大ロックバンドであり、健全な常識人ならビートルズやローリング・ストーンズやRCやサザンの代表曲はそれぞれ10数曲ずつは知っていなければならず、RCでは「キモちE」とか「ドカドカうるさいR&Rバンド」は当然その“10数曲”に入る。
さて歌詞である。
この曲に目をつけたのはまず元詞の「街じゅうのガキどもにチケットがバラまかれた」の「チケット」のところを「セシウム」とかに替えればいいな、と思ったからである。そこからスタートして他の箇所をそれに合うように替えていく。タイトル部分である「ドカドカうるさいR&Rバンドさ」のところは特に重要だが、まあ放射能汚染に不安が拡がるだろうことについて、「ガタガタうるさい一般庶民だ」と替えたのは私としてはあまり満足がいってない。「一般庶民」がどうも言葉として落ち着きが悪いのだが、おおよそそういう意味で、語呂的にメロディに合う言葉を他に思いつかなかった。
「ツアーがどこに行くのか誰も知らない」の部分は、放射能汚染された農作物が「どこに行くのか誰も知らない」ってふうに替えればよかろう(最終的には「オレは知らない」にした)。
そんなふうにいったんおおよその“設定”が決まると、さまざまの箇所で“上手い替えかた”が思い浮かぶ。印象的な「子供だましのモンキー・ビジネス」、「よってたかって分け前をあさる」、「まともな奴は1人もいないぜ」の部分はまさにそのまま使える箇所だが、替え歌として分かりやすくするためにあえて「電気ビジネス」とした。「ホテルをうろつく女を誰かがヨロシクしてるぜ」の部分、ここは「ヨロシクしてるぜ」を残したい。何を「ヨロシクしてる」ことにすれば今回の替え歌の設定に合うか? やはり「安全基準」だろう。「ヨロシクしてる」主語は「誰か」ではなく「政府」だ。メロディに文字数を合わせる必要もあるし、最終的にはここは「気休めの安全基準を政府がヨロシクしてるぜ」となった。
「バカでかいトラックから機材が下ろされ」という原曲の歌い出しもなるべく残したい。とくに「バカでかい云々」という強烈な冒頭フレーズは残したい。この場合、「バカでかい地震」もしくは「バカでかい津波」とするしかなかろう。「バカでかい津波」とすることにし、それで非常用発電設備という「機材」が壊されて、今回の事故は始まったのだから、替え歌の歌い出しとしても申し分ない。
これだけ元詞の印象的な語句やフレーズを残せれば、替え歌としては充分上出来である。残った部分は元詞と無関係にオリジナルに創作してももう問題ない。
2曲目は「プカプカ」の替え歌である。ディランIIというグループのこの71年の曲は、日本フォーク史におけるスタンダード・ナンバーの1つだが、これを2曲目にしたことにとくに深い意味はない。“イヤミったらしい原発推進の歌”に作り替えやすい元歌詞をいろいろ探していて、「♪おれのアンコ(あの娘)は何々が好きで」というリフレインを「原発が好きで」に替えてはどうかという、とくに斬新でも何でもないありきたりな思いつきにすぎない。「♪おれのアンコは何々(タバコ、スウィング、男、占い)が好きでいつも云々(タイトルになってる“プカプカプカ”その他の擬音)」という元詞だから、その擬音のところはもうメロディも無視して原発推進派の決まり文句を並べ、歌うのではなく語ればいいだろう、と。「遠い空から降ってくるっていう幸せってやつが云々」を「放射能ってやつが云々」と替えたのも、まあ“ヤッツケ”である。
全体の構成としても、RCでまずハイテンションで始めたのを、いったん盛り下げるための穴埋め的な曲として、いろいろ作ったうちそういう役割を果たしうるものを2曲目に置いた、という以上ではない。
3曲目はサザンの「TSUNAMI」である。
阪神大震災の時にはクールファイブの「そして神戸」をラジオなどでかけるのが自粛されたり、あるいは麻薬その他でミュージシャンが逮捕されるとその作品が店頭から回収されたりする後進国・日本のいつもの光景にはウンザリしており、今回も案の定「TSUNAMI」が自粛となったので(自粛そのものは仕方ないとしても、わざわざそのことを宣言せざるを得ないこの後進国の同調圧力が不愉快だ)、絶対にこの替え歌メドレーには「TSUNAMI」を入れなきゃいかん、とこれは最初から決めていた。
問題は上手く替え歌にできるかどうかである。
で、元詞を見てみると「とめど流る清か水よ、消せど燃ゆる魔性の火よ」とあるではないか! 「流る」を「流す」に替えて冷却水の意味にすればそれだけでもう他に何も替える必要がない。
そもそも桑田の書く歌詞は1行1行が断片的なフレーズで、歌詞集が『ただの歌詞じゃねえか、こんなもん』(新潮文庫)と題されてさえいるように、内容ではなくメロディやリズムに乗るかどうかが最大に重視されており、そこがまさに“日本語ロック史”におけるサザンの大発明、画期的な偉業でもあるのだが、必然的にカッチリとした物語性が薄く、つまりもともと替え歌に向いてない。今回、「TSUNAMI」は“とにかく入れた”というアリバイさえ作ればよいのだし、せっかくだから「津波」という単語が出てくる部分は何とか残して使うとして、それで充分である。「♪とめど流す清か水よ、消せど燃ゆる魔性の火よ」と歌い始めて、いきなり強引に「津波云々」の部分につなげて、オチをつけて終わり。
4曲目は山本譲二の「みちのくひとり旅」だ。
“東北の歌”を何か入れたいと思ったら、誰だってまずコレを思いつくはずの国民的大ヒット演歌である。で、元詞はどうか?
サビに「たとえどんなに灯りが欲しくても」とある! 何と! これはそのまま“原発ナシでやっていけるんですか?”という原発推進の国賊どもの定番の脅迫フレーズにつなげられるではないか! そもそもサビの歌い出しが「たとえどんなに恨んでいても」である。良識ある人々は誰でも原発推進派を恨んでいる。“しかしそれでも原発は必要でしょう?”という奴らの開き直りにつなげられる、できすぎた元詞である。
こんなにハマるサビができれば、あとは簡単である。推進派の売国奴どもが開き直る歌になるわけだから、その前提として、一応“謝罪”の方向のAメロ、Bメロがあるほうが笑えるだろう。推進派の米帝の手先どもが被災地を神妙な顔つきで回る“みちのく土下座旅”だ。元詞に出てくる「月の松島、しぐれの白河」という地名の織り込みも活かしたい。形容詞の部分はどうでもいいが、「松島」ではなく「福島」、「白河」ではなくやはりギリギリ危なかった「女川」あたりがふさわしいか。
“土下座旅”の描写だが、Aメロ部分の元詞をよく見ると「その場しのぎのなぐさめ言って、みちのくひとり旅」とある! 替える必要がない! 「その場しのぎのなぐさめ言って、みちのく土下座旅」で決まりだ。
これまたここまで原曲の印象的な箇所を残せればあとは好きに創作していい。「ここで一緒に死ねたらいいと、すがる涙のいじらしさ」という歌い出しも、「ここで一緒に死ね」と被災者に罵倒されている東電職員の図、とすることを思いつき、あとはテキトーに平身低頭のノリで作っていって、しかしサビで“そうは云っても本当に原発ナシでやっていくおつもりですか?”と得意の恫喝にかかる。
我ながら傑作だと思う。
5曲目は山口百恵の「いい日旅立ち」で、これまた誰でも知ってる国民的大ヒット曲。
単にこの頃ストリートミュージシャン稼業でなぜかヘビーローテーションで歌っていたもので、せっかくだからこれも替え歌にできないかと、半ばムリヤリに完成させたのだが、いざやってみると、このメドレー中では前曲の「みちのくひとり旅」と並ぶ思わぬ傑作に仕上がった。
手順としては、“なるべく元の歌詞を残す”という原則にしたがって、まずはサビの「ああ日本のどこかに私を待ってる人がいる」を、どういう設定の歌にすれば残せるか、と考える。主体はあくまで原発推進派である。原発推進派の“私”を待ってる人が日本のどこかにいる……これはやっぱり“誘致”ネタだろう。“私”はつまり、経済的に疲弊した日本じゅうの田舎に原発を売り込む“死の商人”である。
サビをほぼそのまま残す方針である上、メロディがはっきりしていて“どう聞いても「いい日旅立ち」”になるから、これはもうサビに至るまでは好き勝手にやってよい。「破産間近の田舎町に向かい『ひとつ原発いかが?』と持ちかける」と元詞から残してあるのは「間近」と「向かい」の2単語のみだが、暗いメロディと相まってブラックな雰囲気で我ながら素晴らしい。
サビは「ああ日本のどこかに私を待ってる人がいる、いい日旅立ち」までそのまま残した。続く「夕焼けをさがしに、母の背中で聞いた歌を道連れに」は「聞いた何々を道連れに」だけ残し、「札束を抱えて、偉い学者に聞いた嘘を道連れに」としたが、これまた我ながら上手い思いつきだと思う。
私はこのメドレーの中でこれが一番お気に入りである。
私としては一番聴いてほしい、暗くブラックな大傑作が2曲続いたことだし、さてそろそろアップテンポに盛り上げて締めくくりたい。
これまたこの“替え歌メドレー”製作を思いついた当初から絶対に入れたいと思っていたハマショー(浜田省吾)の「マネー」である。もちろんこんな恥ずかしい後進国の土人ロックの典型ナンバー、私が好きな曲であるわけがなく、今回のテーマに使い勝手の良いフレーズが元詞にたくさんありそうな予感がした(元詞は知ってるわけだが、替え歌を作ることを意識した状態で聴き知ってるわけではないから、本当にそうかどうかは改めて検討してみないと何とも云えないわけだ)からである。
改めて歌詞を見てみるまでもなく、もちろんあの有名なフレーズは念頭にあった。「いつか奴らの足元にビッグマネー叩きつけてやる」である。“札束で顔をひっぱたく”のが人民の敵・推進派のいつものやり口である。これまた“誘致”ネタになるだろうことは、いざ取り組む前から予想がついていた。
設定を考える。
「“いつか”奴らの足元にビッグマネー叩きつけてやる」ということは、“今は”それができずに悔しい思いをしている、という設定にならなければいけない。たしかに原発事故の直後である2011年当時の“今”は、誘致など論外だろう。しかも推進派の非国民どもは、それは本当は原発を必要としている人たちがいるのに、左がかった反対派どもが不安を煽って邪魔をしているのだ、などと恥知らずで的外れで許しがたい責任転嫁をしているものである。
元詞の歌い出しを見てみる。「この街のメイン・ストリート、わずか数百メートル、さびれた映画館とバーが5、6軒」。おおっ、まさに原発の誘致を持ちかけるにピッタリな、疲弊した地方都市ではないか。しかし実際には原発が建てられてしまう地域はもっと悲惨なことになっているのが普通である。もっと悲惨にしよう。「メイン・ストリート」は「数十メートル」に替え、「さびれた映画館」は「つぶれたコンビニ」に替え、「バー」は「1、2軒」に替えた。
元詞は「ハイスクール出た奴らは次の朝バッグをかかえて出てゆく」だが、「奴らは」だけ残し、あとは“設定の説明”に回して「漁協・農協の奴らはそれでも原発をなかなか建てさせてくれない」とした。その理由はもちろん、反対派どもが不安を煽るからである。元詞を無視して、そのままそういう“設定の説明”を続ける。田舎町に残る人々は「心ごまかしているのさ」という元詞は活かして、田舎者どもは本心では原発を建ててほしいはずなのに、「広瀬(隆)や小出(裕章)のデマに惑わされ、心ごまかしているのさ」とした。
サビの「Money, Money makes him crazy. Money, Money changes everything. いつか奴らの足元にビッグ・マネー叩きつけてやる」は、「him」を「you」に替えただけで、そのまま使用した。
「マネー」で終わってもよかったんだが、この“替え歌メドレー”を着想してほぼ完成し、しかしとくに前記の“「ドカドカうるさいR&Rバンド」のところは「ガタガタうるさい一般庶民」でいいのか”問題や、やっぱりあと1、2曲入れたいなど、さらに完成度を高めようとして試行錯誤しているところに例の、斎藤和義の自作替え歌「全部ウソだった」が発表されて話題になった。
先を越された、と思った。と同時に、その斎藤和義の替え歌の出来を見て、そもそも私はかれこれ20年来、ミュージシャンだのアーティストだの、さもセンス・エリートでございという顔をして、いざ社会派っぽいことを表現しようとするとセンスのカケラもない、口ほどにもない奴らだとバカにしきっているわけだが、案の定、何のヒネリもない凡作だった上に、しかも88年時点でとうに偉大なキヨシローが反原発を歌ってロック史に残る大騒動を巻き起こしたことを忘れたフリして「オレたちはダマされてた」的な無責任きわまりない反革命ソングだったので、こんな程度が日本ロックの水準では世間様に顔向けできないではないかと他人事ながら怒りを燃やした。まだ出来に納得いかないところもあるが、斎藤和義のに比べたら圧倒的に高水準だし、もう発表してしまおうと決めた。
が、せっかくなら斎藤和義の替え歌も何か入れちゃえ、とイヤミで作ったのがメドレーのラストの「大丈夫」の替え歌である。
つまりこれも順序としては、“何か斎藤和義の曲を”という“ミュージシャン縛り”がまずあり、その特定のミュージシャンの作品の中から替え歌にできそうなものを選ぶという、冒頭のキヨシロー作品と同様のものになる。が、斎藤和義のいくつかのヒット曲の歌詞をざっと見て、これしかないとすぐに「大丈夫」を替え歌にすることに決めた。
だって原発推進の歌で、「大丈夫」とはこれまたハマりすぎではないか。「大丈夫、なるようになるのさ」、「いつでもそうやって笑ってたじゃない?」、「もう忘れましょう」などなど、“原発推進派が云ってる”と仮定すると笑えるフレーズだらけなのである。
そういうフレーズをなるべくそのまま残し、あとは“ヤッツケ”だ。テキトーに作ったが、ハマショーで締めくくるより余韻が出ていい感じにもなった。原曲では最後は「ルルル……」とハミングでフェイドアウトしていく。これに当時、私が“表向きの店長”をやっていた福岡市のBARラジカルという怪しい飲み屋の“真の店長”が横から、「そこ、時々“ベクレル”って歌ったら?」とさすが真の店長を務めるだけのことはある画期的に不謹慎なアイデアを提供してくれた。
とまあ、おおよそそんなふうにして「替え歌メドレー・原発推進組曲」は完成した。
ちなみに動画のラスト、今は存在しないBARラジカルの宣伝等の部分でBGMに流れるのがRCサクセションの「サマータイム・ブルース」である。
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