13日に死去した上田正昭さんは、日本古代史という分野の枠を超え、考古学、国文学、民俗学などにも目を配った視野の広い研究を進めた。そして日本の歴史や文化の正しい理解には、「アジアの中の日本」という視点を失ってはいけないと訴え続けた。

 兵庫県城崎(きのさき)町(現豊岡市)で生まれ、小幡(おばた)神社(京都府亀岡市)の宮司家を継ぐことになった上田さんは、国学院大で民俗学、国文学の研究者で歌人でもある折口信夫(しのぶ、釈迢空〈しゃくちょうくう〉)の薫陶を受けた。続いて京都大で国史学を専攻。古代の王権や政治制度の研究で注目されるようになった。

 教員をしていた高校で部落差別事件が起きたのを機に差別や人権問題にも関心を深め、被差別民や芸能者、女性らの歴史も研究。その役割を積極的に評価してきた。1965年の著書「帰化人」(中公新書)では、古代に中国や朝鮮半島からやってきた人々を指して一般的に使われていた帰化人という言葉を「あまりにも日本中心的な言葉だ」と批判し、後に渡来人という呼称を定着させた。