僕がインターネットを始めた当初に抱いていたのは希望だった。職業、人格、ルックスその他ハードウェアを取り除いた言葉だけによるコミュニケーションに期待していた。
現実では立場や関係性により言動はかなり違ってくるがインターネットの世界ではそんな境界線もないボーダレスの言葉や文章力だけの世界が構築されるのだと淡い期待を持っていた。
今考えればなんて真っ白で無知な考えだと思う。しかし当時はニューボーダーでニューオーダーな世界を期待していたがそんな浅はかな希望はすぐに瓦解した
どこのプラットフォームでも社会的立場、職業、体重、性別、既婚未婚、童貞非童貞、右左、保守革新などなどを開陳すると人の反応はすぐに変わってしまう。
何を言っているかよりも誰が言っているかのほうが強い影響力を持つ。現実となんら変わらないことに気づいた。わずか一日で。
だからこれから書く話はまだ僕が純朴で純粋で純然たる青二才、つまり馬鹿だったころの話だ。
インターネットが市民権を得てきたのは僕がちょうど学生だったころだ。当時はまだyoutubeでアルカイダが人の首を切り飛ばす動画が上がっていたりとかなりの無法地帯だった。ちょうどmixiが爆発的に流行っていた時で僕もmixiでくだらない毎日を綴っていた。けれどmixi疲れでやめてしまった。
だからその後、フェイスブックが流行りだして現在でもたまにやろうよと言われるがやる気が起きない。
mixiをやめたあともインターネットは続けていて自由に誰からも干渉されない場所としてブログを始めた。今でもそうだ。だから手や心に負いきれないほどのPVは欲しくない。
立場などを全て排除したコミュニケーションはネット炎上のように敬意を払わなかったり暴走したりするというネガティブな意味が強い。しかし当時の僕は非常にポジティブに捉えていたのだ。
言葉だけによるコミュニケーションに期待していた。
現実に失望していたわけではない。僕は学生の時は(当時はそんな言葉はなかったが)いわゆるリア充だった。けれど現実のコミュニケーションにはどこか埋まらない要素があるように感じていたのだ。
それはおそらく個人的な問題なのだが言葉の即時性に疑問があったからかもしれない。
対人でのコミュニケーションは相手との会話をしていて何か質問されたさいに考える時間はどんなに考えて発言したとしてもせいぜい10秒かそこらだ。それ以上に沈黙すればおかしな奴だと思われる。
もうすこし考えたいのに現実では70%の言葉でなんとか答えていく。それは訓練次第で限りなく100%に近づけられるがこうして文章を書くのと同じように自らの思考を喋れるのかと言えばだいたい無理だ。
完全思考による言葉の選択というのは現実ではほとんど不可能に近い。日常会話ならそれは大した問題ではない。
しかし面接、告白、大事な話、喧嘩など僕の人生においては問題だ。大切なシーンで後になってああ言っておけばなと後悔していた場面がけっこう多かった。将棋で言えば考量時間が足りない。言葉はすぐ二歩になる。
今でも、そしてこれから先もきっとそんな場面に遭遇することは幾度もあるだろう。
だから僕はインターネットには期待していた。
100%人間の思考を抽出する純度の高いコミュニケーション。
本のように知的思索にまみれた、しかし本のように一方的ではない高次のコミュニケーションに。
それはある程度は僕の期待通りに実現していた。匿名のコミュニケーションのほうが本音が出やすい、という面においては僕が望んだ形にインターネットは進化してきたように思う。が、ベクトルが違う。
ただ悪口を言いやすいだけの場所になってしまった。それが本音というのならまぁ確かにそのとおりだ。
けれど僕が望んでいたのはもっと悩みに悩みぬいて口に出すのには考量時間が足りないような回りくどいが厚ぼったい言葉だ。それは悪口でもある程度はいいが批判に足りないようなものはあまり好ましくない。
ただの過去の話であり、理想であり、全てを概して言っているわけではない。限りなく実現している面白いブログやサイトもあるのでそれは大切にしていきたいですね。