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黒柴スポーツ新聞

野球を中心に、心に残るワンシーンやプレーヤーについて綴ります。

阿波野秀幸はなぜ所属3球団すべてでリーグ優勝し日本シリーズ登板を果たせたのか

野球

 

プロ野球選手が所属チームで優勝できる確率はどのくらいだろうか? 何度も優勝できる人もいるし、一度もできない人もいる。移籍した先で優勝できる人もいるし、移籍した先で古巣の優勝を見届ける人もいる。まれに川島慶三のように自軍も古巣も優勝する人もいるが。

 

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近鉄一筋ではありません

今回は行く先々で優勝した阿波野秀幸の話。え、阿波野って近鉄のエースだろ? それはそうだが後に巨人と横浜にも在籍。戦力となりそれぞれのチームで優勝している。面白いのはこの近鉄、巨人、横浜というのはドラフトの時に阿波野を指名した球団ということ(横浜は横浜大洋だったが)。行く先々でチームに貢献する。社内異動や転職の機会がある社会人としてはあやかりたいものだ。

 

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※2001年版ベースボールマガジンのカードを使わせていただきました。やっぱり近鉄のユニフォームが一番似合います。

お兄さん、トレンディーだね

阿波野と言えば西崎幸広と並んで「トレンディエース」。さて問題です。どちらが新人王になったでしょうか。阿波野は15勝12敗、防御率2.88。西崎は15勝7敗、防御率2.89。ほぼ同じと言っていいが答えは阿波野だ。201奪三振最多奪三振や両リーグ最多249.2回の投球回数が決め手になったのだろうか。

 

激動の近鉄時代

 1988年は14勝。近鉄は優勝を逃したがあの「10.19」第1試合で救援、一打サヨナラ負けのピンチを三振で切り抜けた。第2試合は高沢秀昭に同点ホームランを打たれ、万事休す。1989年は19勝で最多勝最多奪三振近鉄を優勝に導いた。1990年には10勝を挙げたが以後4年は2勝、6勝、1勝、0勝。1989年に日本シリーズで戦った巨人との間で香田勲男を相手とするトレードが成立し、1995年から巨人でプレーした。

中継ぎとして生きる

巨人では1996年、河野博文レフティーズの一角となり優勝に貢献。恩師・仰木彬率いるオリックスとの日本シリーズでも登板した。1998年からはベイスターズへ。ここには近鉄時代の上司、権藤博がいた。おもに中継ぎとして50試合に登板。横浜38年ぶりの優勝を自ら引き寄せた。こうして近鉄、巨人、横浜と所属チームすべてでリーグ優勝し日本シリーズにも出場したのだった。権藤については記事を書いたばかりなので、まだご覧になっていない方で興味があればぜひご覧ください。

 

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与えられた仕事を全うする

巨人時代は近鉄や横浜ほどではなかったとはいえ、なぜ行く先々で戦力になれたのか。黒柴スポーツ新聞なりの分析では「現状を受け入れたから」だ。近鉄時代にエースとして君臨しタイトルもとり開幕投手も務めた。世代交代やコンディションのこともあっただろうが他球団に行って中継ぎをやるにはエースだったプライドは捨てなければならない。断わっておくが本紙は中継ぎや抑え投手も応援しているので下に見るつもりはまったくないのだが、沢村賞に代表されるようにまだまだ世間的には先発投手が格上だ。しかし阿波野としてはプライドで抑えられるのなら苦労しないわくらいに思っていたのかもしれない。与えられた職場で与えられた仕事を全うする。うまくいけばまた呼ばれる。その繰り返しが好結果をもたらしたのではなかろうか。

 

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※1998年版「未来蜂歌留多商会」のカードを使わせていただきました。このシリーズはほかに持っていません。ダイナミックな写真に見えいいアングルです。

 

本紙で何度も言っているが努力したからといって結果がでるとは限らない。特に社会人の世界はそうだ。が、阿波野みたいに成果が得られる人はいる。その背景を想像してみることで何かヒントが得られるかもしれない。