解体か保存か、遺族の間でも意見二分…揺れる大川小の「未来」を切り開くには

2016年3月13日15時44分  スポーツ報知
  • 津波被害を受けた大川小の低学年の教室。天井の壁がほとんどはがれている

 「あれから5年たったと言いますが、私たちには何か区切りが付いたというわけではありませんから」。遺族の言葉が、胸に刺さった。

 2011年3月11日の東日本大震災による津波で児童74人と教職員10人が死亡・行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校。震災から5年となった11日、遺族会が被災校舎で法要を営んだ。遺族や住民ら200人以上が参列し、犠牲者の冥福を祈った。

 大川小校舎をめぐっては、現在、震災遺構として保存するか否かで、遺族や住民の間で意見が割れている。校舎の保存を望む遺族は「防災意識が高まる。2度と悲劇が起こらぬよう、未来の教訓のために残してほしい」などと主張し、解体を望む遺族は「校舎を見ると悲しみを思い出し苦しくなる。観光地化して記念写真を撮る人もいる」などと訴えている。

 双方とも、かわいい我が子を失った遺族。それなのに、違う答えに行き着いた。第三者から見れば、どちらも正論に聞こえる。しかし、一方を選択しなければならない。石巻市は「3月中に保存するか解体するか結論を出す」としているが、果たしてどうするのか。どちらに決まったとしても、半数近い遺族や住民らは納得しない状況だ。それで解決したと言えるだろうか。

 ある遺族は言った。「もっとお互いに話し合いが必要だと思う。遺族間でもまだ十分に議論していない。多くの人が少しでも納得し、一人でも同じ方向を向けるようになることを願っています」。震災遺構で、この5年間で残ったものは数少ない。だが、宮城県が31年まで管理する事を決めた南三陸町の防災対策庁舎の例もある。

 大川小の児童たちは、地震の後、校庭に約50分待機し約200メートル離れた川の堤防へ避難したところ、4キロ離れた河口から北上川を上ってきた津波に襲われた。校舎の傷跡は、今も生々しい。2階教室天井に津波の泥水の跡が残り、床は異様に盛り上がっているという。校舎と体育館をつなぐ渡り廊下はなぎ倒されていた。そして、教室の時計の針は津波が到着したとみられる「3時37分」を指して止まったまま…。

 大川小の校歌のタイトルは「未来をひらく」。あまりにも悲しいことがあった場所だが、どうか新たな「未来」を切り開く場所であってほしい。

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