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【歴史のささやき】志學館大学教授・原口泉氏 小松帯刀、薩英蜜月をプロデュース

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【歴史のささやき】
志學館大学教授・原口泉氏 小松帯刀、薩英蜜月をプロデュース

鹿児島市の小松帯刀の像

 幕末の慶応2(1866)年6月17日、鹿児島城の別邸・磯仙巌園で、パークス公使ら英国使節団歓迎の宴が開かれました。キング提督率いる総勢300人の英兵を乗せた軍艦3隻が錦江湾に雄姿を現したのは16日午後。招待状を書いたのは家老、小松帯刀(たてわき)でした。前年に五代友厚、寺島宗則ら19人の薩摩藩使節と留学生が英国を訪問した返礼でもありました。

 この招宴は5時間にもおよび、山海の珍味45種、酒も日本酒、シャンパン、シェリー酒、ブランデー、ビールなど豪華を極めました。同行したグラバーは、そのメニューを横浜の英字新聞に寄稿しました。グラバーは留学生派遣の世話をしたJ・マセソン商会傘下の商人です。

 この年の1月、薩長同盟が成立しています。英国が薩摩藩を支援していることを誇示したかったのでしょう。仏国が幕府を支援していただけに、英国使節団の薩摩訪問には大きな政治的意味がありました。滞在は6月16日から22日までの7日間。この間の最大の成果は薩英両軍が軍事演習を披露し合ったことです(20日)。薩摩側は英兵150人の兵卒が軍楽隊の演奏に合わせて整然と進退する姿に驚いています。これを機に、薩摩藩の兵制は全面的に英国式を採用、翌年には熊本・人吉藩の兵制をも指導し、慶応4年1月の戊辰戦争を戦うことになります。

 こうした英国兵制への転換など、一連の政策を主導したのが小松帯刀でした。薩摩藩が独自につくった英国兵学の学校「開成所」(1864年)から英国留学生派遣、英国使節団の招待も彼が担いました。英国外交官アーネスト・サトウは小松をこう評しています。

 「小松は私の知っている日本人の中で、一番魅力のある人物で、家老の家柄であるが、そういう階級の人間に似合わず、政治的才能があり、態度が人にすぐれ、友情に厚く、そんな点で人々に傑出していた」

 しかし、このような親英外交には、根強い反対意見もありました。重臣の一人、道島正亮は14カ条に及ぶ反対意見を記しています。批判の第一は莫大(ばくだい)な費用がかかったことです。使節招待の費用は約3万両。留学生派遣には運賃や滞在費だけで約7万両。グラバーからの「過分ノ御借銀」も返済せねばなりません。パークス夫人が市中を見学するのも気に入らなかったようです。「夫人ヲ初テ見候、生(なま)スカン物共ニテ候」という久光側近の言葉があります。「生スカン」とは鹿児島弁で「大嫌い」という意味です。

 こういった藩内の保守、攘夷の意見が押さえられ、藩が分裂しなかったのは島津斉彬の遺訓(順聖(じゅんしょう)公遺訓)があったからです。薩英軍事演習には藩主、島津忠義が臨みましたが、そこでは前藩主の斉彬の肖像が掲げられていました。

 6月22日、英艦は鹿児島を出港しますが、実は26日の予定を早めてのことでした。6月22日午後4時頃、「白壁舟二帆(2本マストの白い船)」が入港し、ヨーロッパで戦争が急に始まったと知らせたからです。

 薩摩藩はこの年、普墺戦争が始まったこと、それにプロシアが完勝し、ドイツが統一されたことを知っていました(在ロンドン畠山義成の在國新納久脩(にいろ・ひさのぶ)家老への書簡・英暦6月26日付)。

 正確なヨーロッパ情報を収集していたこと、藩内の分裂を阻止できたこと、いずれも調整役の小松抜きには考えられません。また大奥と表との対立もありがちですが、薩英戦争のとき大奥は一緒になって島津家の初代・忠久を祀(まつ)る花尾神社に避難しました。島津家としての一体感を強めたことでしょう。かつてのお家騒動(お由羅騒動)のしこりも、解消したに違いありません。

 小松帯刀とグラバーの共同事業「小菅ドック」が世界文化遺産に登録されたことが、明治維新においての小松の役割を証明しています。

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【プロフィル】原口泉

 昭和22年鹿児島市生まれ。東京大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10年から23年まで教授を務め、17~21年は同大生涯学習教育研究センター長を兼務した。23年4月に志學館大人間関係学部教授に就任、24年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史で「龍馬を超えた男小松帯刀」(PHP文庫)など著書も多数。大河ドラマ「篤姫」や、9月から放送予定の「あさが来た」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。