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アンノン・ゲーム

人生は未知のもの。だから、私は書き続ける-。

『戦国武将の名言とエピソード(2)』前向きなリベンジ

戦国武将の名言とエピソード

 

今日の主人公は明智光秀です

 

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画像 : 太閤立志伝5 から

 

本能寺の変で有名ですが

 

明智光秀は、突然のクーデターで主君・信長を倒したので、

野心家で怖い人というイメージがあります。

 

そもそも、信長に反旗を翻した理由も、

パワハラ説や朝廷などの陰謀説もあり、確かなことはよくわかっていません。

 

そんな光秀ですが、織田家に仕官する前は鳴かず飛ばずの日々が続き、

妻が長い髪を切ってお金を工面し、生活を支えたこともありました。

 

光秀が足利家臣の細川藤孝という武将のもとで働いていた頃、

米田という侍から、嫌がらせを受けたことがありました。

 

彼は主君の藤孝から、光秀の面倒を見るように言われていたのですが、

どうにも反りが合わず、ことあるごとに辛く当たっていたのです。

 

あるとき、光秀は開墾の仕事を命じられて畑に出かけました。

 

ところがそこは、石ころばかり出てくるやせた土地で、

作物を育てるには非常に難しい環境でした。

 

困った光秀は米田に、

「これでは仕事にならないので、違う畑を与えてください」と言ったんですが、

「浪人上がりの新参者のくせに、生意気な」と、まったく取り合ってもらえませんでした。

 

そんな折、光秀は織田信長の噂を聞きました。

 

信長は「才能がある者には身分を問わず、仕事を与える」という大名だったので、

光秀は彼に仕えようと、一大決心します。

 

そして・・・

 

光秀は信長のもとで異例の出世を果たし、

近江の国(いまの滋賀県)にある坂本城を任せられるようになりました。

 

ある日のこと。

 

光秀は奇遇なことに米田と再会しました。

 

かつてバカにしていた侍が、一国一城の主になったので、

米田は慌てて逃げようとしました。

 

光秀は、彼を呼び止めるとこう言ったんです。

 

「米田殿、あのときの貴公の仕打ちを、わしは恨んでなどいない。

いや、むしろ貴公があのように言ってくれたおかげで、

決心がつき、織田家に仕えることができた。

今日、わしがこうしてあるのは、貴公のおかげやもしれぬな」

 

米田は光秀の言葉に、ただ恐縮するばかりだったそうです。

 

プラス思考の大切さ

 

光秀はもともと、パワハラを受けやすい性格だったんでしょうか。

 

理知的で穏やかな人という言い伝えもあるので、

戦国武将の中では大人しいほうだったのも知れません。

 

「貴公の冷たい仕打ちのおかげで、信長に仕えることができた」というのは、

『あのまま細川家にいたら、俺はこんなに出世はできなかったぞ』という意味です。

 

感謝の気持ちもあるとは思いますが、

自分を低く見ていた者に対するリベンジとも言えますね。

 

ちなみに現代でも、

【あの人に嫌なことを言われて失敗したから、

次は同じ轍を絶対に踏まない】と思うときがありますよね。

 

いつまでも引きずっていては進歩がありません。

 

マイナスをマイナスのままにせず、

プラスに変えてやろうという心意気が大切です。

 

転職はいつの時代も難しいものですが、

光秀はたぶん、織田家も辞めようと考えていたんでしょうね。

 

信長が目指すものと、自身の考えがまったく違うことに、

気づいてしまったからなんですよ。

 

実は、本能寺の変の直前に、

明智領の丹波が召し上げになってるんです。

 

信長は「戦って敵の領地を奪えばよい」と言ったそうですが、

必ず勝てるという保障はありませんよね。

 

そんな諸々の複雑な事情が絡み合って、

「敵は本能寺にあり!」と叫んだ光秀でした。

 

もし、彼が天下を取っていたら、

日本はどんな風に変わったのか、ちょっと興味がありますよ。

 

愛蔵版 戦国名将一日一言

愛蔵版 戦国名将一日一言

 

 

(ご注意)

 

名将言行録等の逸話に基づいた物語ですので、

内容は史実と異なる場合があります。