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ゲームとシナリオの奇怪な関係
『ルーク・スカイウォーカー問題』「難易度を下げれば解決する」という主張があったけれど、それでは解決しない。
問題を簡単に煮詰めると

●デススター撃破はそもそも無理な難易度で、普通は失敗する。
 ⇒とてもムリなコトを成功するからヒーローだ。
●体験は原理的には時系列に従うので一回性。だから死んでやり直しとかはありえない(死んだら「死んで終わった体験」が正しいことになる)
 ⇒これを死んでもやり直せる世界観を作ることで解決しているのが例えば"All you need is kill"だとか、トルネコ/シレンの「不思議のダンジョン」って仕掛けだったり、最近だと"シャドウ・オブ・モルドール"だったりする(ただしモルドールは時間が戻るわけではないのでさらにスゴい)。
●しかしゲームデザイナーがルークでないユーザーに体験してもらいたいストーリーはもちろんデススターを破壊することなのだから、100%成功するアイディア以外は、体験としては全部成り立たない。

つまり『ルーク・スカイウォーカー問題』 は、課金だろうが、100倍に速度を落とそうが、QTEだろうが絶対に失敗しない方法以外では構造的に解決出来ない。それでは映画や小説のような(強い)一本道のストーリーを取りつつ死んでやり直しがあるゲームで、かつ時間ループや不思議のダンジョンを使わない世界(大多数は使えない)はどのようにすればいいのか?

簡単な使われる解決策として有効なものが二つ…いや1.5個ぐらいある。
それはノベル形式もしくはいわゆるガラケーのソシャゲの5ポチ形式だ。ボタンを押すだけで先に進み、かつ選択肢があっても、その選択肢が失敗に繋がらなければ100%成功するので、そもそものシナリオで失敗させない限りは絶対に失敗しない。ノベル形式ならストーリー展開に影響しない選択肢を与えればゲームっぽく見えるだろうし、5ポチならエナジーとかスタミナと呼ばれるものを導入すれば、やはりゲームっぽくなる。
ただ、これはコンピュータゲームの最強の武器であるインターアクトする能力を極端に制限して解決する方法で、操作が絶対に失敗しない構造では緊張感がないし、緊張感がなければ没入感も薄くなる。

では失敗があるゲームで絶対に成功させるには、どうすればいいのか?

セガの知り合いは「一見当たりそうなビームを撃ってくるが絶対にそれは届かず、適当に発射ボタンを押しても当たるようにして、発射ボタンを押さなければ自動で展開するぐらいまでやれば、絶対失敗しないように出来るよね」と言った。
確かに。
一度だけなら、このシチュエーションだけなら、多分これでごまかせる。問題はこの方法は毎回とんでもない作りこみが必要で汎用性がないし、プレイ2回めからは多分バレることだ。
人間の認識能力ナメてはいけない。
CEDEC 2014 誰でも神プレイできるシューティングゲームCEDEC 2015 誰でも神プレイできるジャンプアクションゲームあたりでも、さらっと触れられているのだけど、人間の認識能力はシャレになっていない。
しかも現在にはインターネットという情報共有する上で超強力なツールがあるので「最終面で死なない」という情報があっという間に共有されて、最終面になったらコントローラを置くようになってしまうだろう。

つまり苦労に見合わないと想像出来る。

なお最初に書いたノベル方式で、どう選んでも失敗しない選択肢を並べて、ゲームっぽさを演出する方法があるが、コレもインターネットというゲームデザイナーにとっては悪夢の集合知の前には、一瞬で「どの選択肢を選んでもいい」って情報が共有されてしまう。

ではどうすればいいのか?
例えばデススターの溝に入ったら速攻ムービーになって以降はユーザーの操作を許さずクリア。これなら失敗しないし汎用性も高い。そこに至るまでは普通のゲームで来れる気がするだろう。
この方法の最大の問題はユーザーが多分怒ることだ。僕なら怒る。
重馬さんが「ゲームのシナリオで大事で難しいことは、一番美味しいところをユーザーにやらせなければならないことだ」と言っていたんだけど、これはまさに一番美味しいところを取り上げる方式なんだから、話にならない。

重馬さんは重馬敬さん。ゲームシナリオライター。
『ルナー・ザ・シルバースター』のシナリオなどが有名。
僕は重馬さんの上のセリフはゲームシナリオの原則論の1つとして、恐ろしく大事だと思ってたりする。
ちなみに重馬さんの ゲームシナリオ作成については、ゲームシナリオライター必読だと思ってるslideshare。

そしてこのムービーにしたら? というアイディアはゲームシナリオの在り方に関わる大きな問題をあぶり出す。
トレンチ手前まで普通のゲームということは、やはりそこにも失敗がある。だから「デススター上空で死んだらどうする」⇒「ミレニアムファルコンがタイ・ファイターに撃墜されたら…」と質問を繰り返してストーリーの最初に向かって遡ると、一番最初にスタートボタンを押したらユーザーの操作を一切許さないのがストーリーを展開する上で最も効果的という結論が出てしまう。

すなわち、そもそもユーザーが介入出来るのと一本道のストーリーは相性が悪いのではないか? ストーリーメディアとしてのゲームには問題があるのではないか? という疑問が出てくる(だからインターアクトが制限される5ポチやノベル形式の方が相性がいいのではないかという、逆説的な疑問も出る)。
そして、これはシド・フィールドのシナリオ構築論と出会ってから、ずっと考えている「ゲームとストーリーの関係はどうあるべきなのか?」に繋がる。

この問題は、かの押井守監督の著書『注文の多い傭兵たち(1995/メディアワークス)』に収録されている「ブリタニアの草原にて」で、見事に説明されているので、ぜひ読んで欲しいのだけど、絶版なので核になる一文を引用しておく。

「物語」ってのはそれ自身の内在的な<動機>に導かれて発端から終幕へ自律的に展開する(もしくはそう見える)ことが身上なのであって、登場人物はそれぞれの意志と固有性を持ちながら、しかし実は作者の恣意に操られる主体的な存在でなければならない。その意味で主体の恣意的な参加を前提とするゲームの構造とは本質的に相容れない構造を持っている。
「定められたレールの上を走らされている」感覚はゲームにとって致命的であり、しかも自由奔放な主体(プレイヤー)の行動は、終わることが最大の目的である物語の構造に抵触する - この二律背反は「バランスが良い-悪い」の次元で解決できる問題ではなく、よしんば解決できたように見えたにせよ、そこに実現されたものは原理的にいって本来の「物語」や「ゲーム」に遠く及ばぬヌエ的な作品足らざるを得ない。それ以下の「物語」や「ゲーム」が横行しているという相対的な状况は敢えてここては問わないが、この辺の事情は、物語の構造により深く関わらざるを得なかったAVG(コマンド入力/選択型Adventureゲーム)が、いちはやくドッポにはまり込んだ事実を見れば明らかだし、CRPG(80年代後半~90年代前半)が一見この過程から(取り敢えず)自由であるかのように見えるのは、ただ単に「物語」からもっとも無難な(明確な方向性を持たぬ)「状况設定=世界観」を拝借している段階に留まっているからに過ぎない。ゲーム内の物語性の緻密化が進めば、いずれは難問として発現することは間違いない。

※ 下線部は、オリジナルにはない説明。今とオリジナルの時代では用語の解釈に違いがあるので付け加えてある。

と引用した文を踏まえたうえで『ルーク・スカイウォーカー問題』 を再度考えてみると、そもそも、失敗する・しない以前に、どうしてデススターのトレンチで先に進みたいと思うのか?
それは「ストーリーの先が見たいから」だったり「この敵の攻撃をかわしたいから」だったりするだろう。
この欲求は誰のものか?
プレイヤーのもので、間違ってもストーリー上のルークの動機ではない。
これはストーリーメディアとしては困る。
なぜならプレイヤーはルークに感情移入して「レイア姫を、反乱軍を救うために、無理とわかっていても成功させなければならない」と思っていて欲しいし、そうでなければ困るのだ。クリアした瞬間に「ざまあみろ、クソ(ゲーム|レベル)デザイナー !」ではなく「やったー! エンディングが見られる!」でもなく、理想的には「やりましたよ! レイア姫」だとか「やりましたよ! オビワン!」であって欲しいが、もちろん、たいていはそうではなく前者2つのどっちかだ。
つまりゲームでは、たいていの場合、ストーリー進行そのものがゲームを進めるためのエサ=プレイヤーの動機になっていて、シナリオのキャラクタの動機とは全く乖離していて、ストーリーメディアとしてはどうなんだ? という事だ。

桝田さんは天外Ⅱで、プレイヤーの動機とキャラクタの動機が乖離した状態で卍丸が喋るとプレイヤーとゲームのキャラクタの同一性が壊れると考え、しゃべるときに同じ気持になるようにするために、恐ろしく周到に手を打った。

このストーリーとプレイヤーの動機が乖離している問題は表現力が豊かになった現代のゲームではさらに深刻になっている。
例えばオープンワールドのゲームで、街で見かけた人を銃で撃ち殺し、車を乗り散らかして、山の上まで逃げてと無軌道な暮らしをしているプレイヤーキャラクタが、シナリオを進行させると、突然深刻な表情で家族との関係について語りだしたり、それとも、逃げて隠れて、あらゆる卑怯な手段で戦っていた王家の子孫…ということになっているキャラクタが、シナリオの上で強制的にプレイヤーのプレイからはかけ離れた英雄的な行動をするとか、違和感に満ち溢れた展開になるのはよくある話だ。

加えて、もう一つの問題がある。
そもそもストーリーはパズルを解いたら先に進むものばかりではないのは、誰でも同意出来るところだろう。

パズルは、どこのだれともわからないNPCを探す、ボスを倒す、特定のエリアを通過する、ともかくなんらかの形でゲーム側から投げかけられる「チャレンジ」に対して、プレイヤーが自発的に行動することで解くことができるもの、とでも定義しておく

ストーリーは誰かと誰かが話をしているだけでも、進むし、主人公がモノローグを語っているだけでも進む。道を歩いているだけでも、それともエレベータを上がるだけでもストーリーは進む。ベッドに寝転がっている主人公の顔が徐々にアップになりながら表情が変化するだけでもストーリーは進む。 むしろストーリーは戦いの中ではあまり進まないし進めにくい。
だから、ゲームでは戦う(プレイヤーのアクション)→セリフなどでストーリーを進めるという構造になり、静かなシーンにプレイヤーの操作を入れることは難しいので、操作が排された、もしくはボタンを押すだけのシーンになることが多くなる。

つまり、ストーリーを深く語ろうとすればするほど、プレイヤーが操作しない時間が簡単に増えるのだ。

90年代前半にテレビゲームがCDROMを手に入れて飛躍的に容量が拡大して、ストーリーを音声やムービーなど様々な技法を使って語れるようになった(主に)CRPGで、ムービーゲーと揶揄されるような事が起こったわけだが、これは表現力が向上した結果として「ゲームなのか話なのか、どっちなんだ」という、押井監督が書いた問いが、とても端的な形で現れたわけだ。

では現代ゲームデザイナーはこのゲームとストーリーが乖離してしまう問題にどのように対応しているのか?

「プレイヤーがバカな行動をするのはプレイヤーの責任だし、ストーリーとプレイヤーの行動(ゲーム)をマッチさせるのは難易度が高すぎる。それにストーリーの要求からプレイヤーに行動制限かけると、たいていはすごい不満が出るから、プレイヤーの自由性を基本的には阻害せず、ストーリーは勝手にやらせてもらうことにしよう。プレイヤーはそれまでの自分のプレイとストーリーを分離して見られるみたいだし、それでいいんじゃね?」
が、今の結論だったりする。

やはりなんともモニョってしまう話なのである。

ちなみにナラティブなる文脈はまさに「ルーク・スカイウォーカー問題」を回避するために出てきていると、僕なんざ思っている。
強いストーリーで語らず、背景に散りばめられている断片からストーリーを読み取ってもらうなんて技法は、上記引用部で押井監督が書いている『単に「物語」からもっとも無難な(明確な方向性を持たぬ)「状况設定=世界観」を拝借している段階』にゲームを再度置き直すやり方以外の何物でもない…と、やや批判的に見ているのである。

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