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LIFE IS HAPPY!!!

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ブクマを見るの怖い問題

日記

このブログ、グルメブログとかガジェットブログとかそういう何かに特化したスタンスじゃなくて、ただひたすら自分の思いついた妄想を爆発させたりその日考えた事とか自省をしたためておこうという位置づけにしている。文字に起こすことで考えがまとまったりするし、チラシの裏でなく誰かに見てもらうという制限を加えると多少の構成を考えて、後で自分が見ても「この時自分はこんなことを考えていたのか」と理解できるくらいに書こうという気になるので、そうしている。なので今はPV!PV!と思うことはそこまで無い。それでもやっぱり多くの人に見てもらえるなら嬉しい。が、それとは矛盾して見られることに対して怖いみたいな部分もある。自分の文章を見て、みんな何を思うのだろうかと思うと怖さがある。自分のエントリのブックマークページを開く瞬間は、幾ばくかのためらいはある。

罵倒が怖い

他の人のホッテントリとかたまに見てて、そのブクマページを見るとド直球ストレートに「死ね」とだけコメントされてるのを見たりすると「うおおおおお……」と思う。後で自分が見ても理解できるように…と言いながらも、後で見たら完全になんかのドラッグやりながら書いただろとしか思えないようなイタイ妄想を何千文字も書いてるのを見ると、こういうのに「何言ってるか分かんねえよ死ね」ってストレートな罵倒が来てもおかしくはないよなと思う。

マサカリが怖い

罵倒じゃなくて、仰るとおりでございます…としか言えないような現実的でグサリとくるような正論もある。それはもう受け入れるべきだなと判断し、そのコメントをありがたく思いながらも、やっぱりその「グサリ」の瞬間は怖かったりする。あまり賛同できない部分もありながらも、その一部には同意できるし貴方の言うとおりで自分はこういうところを治さねば…と思うようなこともあるし、辛辣な言い方でも、丁寧な言い方でも、それらに含まれる同意できるような部分がグサリと来ることに変わりないし、それと向き合わねばならないと思いながらもやっぱり向き合う瞬間に対してためらいがある。

自分と向き合うのが怖い

共感してもらえてるようなコメントにホッとしながらも、そういうグサリとくる言葉に対して受け入れなければとも思う。だが、何故「グサリ」と感じる必要があるのだろうか。自分の背中にあるほくろは自分じゃ見えない。誰かに言われないと分からない。そういう背中にあるほくろのような、自分じゃ見えなかった部分を言ってもらえるとか、目をそらし続けていた嫌な部分をコメントとして可視化してもらえたというのなら、別にそれを受け入れれば済むだけだ。欠点なんて誰でもあるし、おっしゃるとおりですというようなことなら、その通り受け入れて自分の欠点を改善する策を考えればいいだけの話だ。なぜそれを刃物が刺さったかのように感じるのか。タイプミスを指摘されてグサリと感じる人はいないし、自分もそんなに感じない。あ、ミスってた、ご指摘ありがとうございますって感じだ。それとベクトルの方向性は一緒じゃないか。何故そんなに大げさに感じる必要があるんだろうか。

色々考えてみたけど、自分の価値観が崩れるから嫌だったんじゃないのかと思う。無意識の内に考えている、自分はかくあるべきという部分が崩れてしまうのだと思う。タイプミスと同じ要領でそれも直せばいいじゃん、という話だけど、そのもっと奥にある「自分はかくあるべき」という考えがオカシイことに気づくのが嫌だったんだと考える。それは、「自分は正しくあるべき」というなんだかよく分からない曖昧な価値観。

「怒りっぽい」とか「傷つきやすい」とかっていうのは一般的には欠点に見える。自分でもそうはありたくないと思っている。自分の思う「正しさ」にそれは含まれていない。けど、怒りっぽいというのは自分の感情を露わにできることであり、感情を露わにできることそれ自体は自然だし、悪いことでも何でもない。傷つきやすいのは感受性が高くて言動の奥にあるものを察知しやすいとかとも言える。それって正しくないのだろうか。正しいって何だ。

視点や状況によっては正しさなんて変わる。絶対唯一の正しさなんて存在しない。そんな状況や立場によってコロコロ変わったり、そもそも存在するのかも分からない。誰かと誰かが喧嘩をしている。喧嘩をふっかけた方が悪いのか、ふっかけられるような事をしているほうが悪いのか。どっちにも理屈があって、どっちも正しい。どちらかが絶対悪/絶対正義じゃない。よく分からない。そんなものを価値観の根拠にしていたのだろうか。「正しさ」を根拠にするというのがそもそも「正しい」のか。その全てを二分して考えるという姿勢もなにかおかしいんじゃないのか。

自分に向けられた全てのコメントには正しさが含まれている。自分が見当違いなことを言っているのに対しての反対意見としての罵倒があったり、それとは違う自分と同じスタンスから見ると共感があったり、またそれに対しての最もな批判的な意見も全部正しい。それは一種矛盾した状況だ。Aという人もいれば、その正反対のBという人もいる。「正しいかどうか」を根拠にそれらを吟味したら、どっちも受け入れるべきだ。でも、そんなのできない。正しいか正しくないかなんて曖昧な基準で処理しようとしてしきれなくなっている自分を見るのが嫌なんじゃないか。

自決的価値観

自分で自分が正しいと思うから何かを書く。が、正しいなんてことは有りはしない。いや、自分の主張に正しさも含まれていれば、間違いも含まれている。正しさを価値観の根拠にしているのに、間違っていることを言う。明らかな矛盾だ。正しいと思っていることが、正しくあるべきなんて思っているそれこそが、正しくないんじゃないのか。その「グサリ」は自分で自分に刃を突き立てているような気がする。