津波被災地を、歩く。

 大船渡、陸前高田、気仙沼、南三陸、女川……。無機質で巨大な土木工事が目に飛び込む。

 真新しいコンクリートの壁が海沿いにそびえる。防潮堤だ。旧市街地では最大で10メートルに達するかさ上げが進む。ピラミッドのように連なる土の山。行き交う大型トラック。砂ぼこり。

 岩手、宮城、福島の3県で、防潮堤の総延長は400キロ。かさ上げなどのための土地区画整理事業は50カ所で1400ヘクタール、東京ドーム300個分だ。

 5年前、津波にすべてをさらわれた風景とは別の意味での「異世界」が広がる。

 ■しぼんだ理念

 被災直後、政府は「創造的復興」をうたった。

 人口減や高齢化、産業の空洞化など、日本の各地がかかえる課題の解決をめざす先進地として被災地を位置づけた。

 識者に3県の知事が加わった復興構想会議は「震災からの復興と日本再生の同時進行」などの原則を掲げ、国と地方の関係を見直す意欲すら見せた。

 だがその機運はいま、うそのようにしぼんでいる。

 工事を見た構想会議の一人は「こんな光景は想定していなかった」。復興庁幹部も「やりすぎた」と本音を漏らす。

 被災地の首長は「『創造』どころか、震災前に戻す『復旧』すら見通せない」と語り、国民には「税金は有効に使われているのか」との疑念がふくらむ。

 理念づくりに終始した構想会議と、被災者支援や遺体捜索などに追われた現場の担当者。

 防潮堤拡充への提言を出した内閣府の審議会と、沿岸部の低地再利用のためにかさ上げ事業の検討を進めた国土交通省。

 「悲劇を繰り返さない」「復興を急げ」というかけ声のもとで、行政の縦割りと、予算や権限拡大への思惑が絡み合った。

 ■阪神大震災の教訓

 どこで歯車が狂ったのか。誰が責任を負うべきか。解をみつけるのは簡単ではない。

 被災地といっても、地域ごとに事情は異なる。ただ、安心して暮らし、働く土俵を整えても、人が戻らなければ復興はおぼつかない。それが、21年前の阪神大震災の教訓でもある。

 神戸市の新長田地区。

 100軒近くあった戦前からの下町商店街は9割が燃え、市の再開発でビル街に生まれ変わった。当時も「創造的復興」がスローガンだった。

 しかし高い維持管理費などを嫌い、多くの商店主が離れた。後継ぎがおらず、シャッターを下ろしたままの店が続く。

 「東北は、僕らとおなじ道を歩いたらあかん」。お茶屋を営む伊東正和さん(67)は言う。自らの経験を伝えようと、宮城県南三陸町の仮設市場「さんさん商店街」に何度も足を運ぶ。

 再開発計画を神戸市が決めたのは、震災のわずか2カ月後だった。「おかみに従った方がええやろと考えた。でも自分の街は自分で守らんと。随分たってから、それがわかった」

 一方、津波で壊滅した宮城県女川町にはいま、視察者が相次いでいる。

 かさ上げした旧市街地では、JRの駅を核に、木造建屋の商店街が延びる。町役場や宿泊施設も予定され、「コンパクトシティー」が姿を見せ始めた。

 しかし、街づくりを主導した民間人グループの一人、地元紙販売所長の阿部喜英さん(47)の話を聞くと、女川に学ぶべきことは別にあるとわかる。

 被災後、街の再生への道を探ろうと、地域振興のお手本となる自治体を仲間と訪ね歩いた。

 葉っぱを「つま」に使うビジネスで有名な徳島県上勝町や、IT環境を整えて移住を呼びかける同県神山町、駅前開発に成功した岩手県紫波町……。

 ■住民が考え、動く

 結論は単純だ。「やってはいけない」のは身の丈に合わない大規模商業施設を造って観光客を増やそうとすること。「やるべきこと」は、自分たちが楽しく暮らせる街づくり。来訪者はその結果として増える――。

 「検討と決定のプロセスこそが大切」との思いも強まった。民間人が主体の復興連絡協議会。行政による作業グループ。NPOが開く「カフェ」型の放談会。女川のさまざまな場で、町がめざす方向を共有する。

 その女川ですら、今後は予断を許さない。震災前に1万超だった人口は、津波の犠牲と町外への移転で4割近く減った。

 「6千人」はくしくも、震災の8カ月前に直面した数字だ。地元の銀行関係者による講演会で、2030年の人口予想として示され、衝撃を受けた。

 その時、女川の人々はすぐに勉強会をもうけ、対策を考え始めた。その平時からの蓄積が、混乱収まらぬ12年初めの街づくり提言に結びついたという。

 住民が自らの町の未来を見すえ、学び、考え、動く。

 被災地にとどまらず、全国すべての「地方創生」で問われる姿勢だろう。