2016年03月11日

一般受けしない話

今日は死について書いてみたくなった。

虹色のファンタジーではなく、ありのまま、感じるままを書いてみる。

今日の記事で気が滅入る人もいるかもしれない。

しかし深く理解すれば、途方もない開放を起こすチャンスもある。

とにかく書き始めてみよう。


母が死ぬ瞬間を見て、やっぱりそうかと思ったことがある。

死と共に終わったのは、彼女の呼吸と、90余年にわたる壮大な物語。

その物語は繰り返される騒動そのものだった。

そんな彼女という騒動が、死によって終焉したのだ。

それと共に、彼女という自我が煙のように消えていった。


彼女の口癖は

「いまが一番幸せ」

だった。


しかしそれを文字通りに取ってはいけない。

戦前戦後を通して、生きるのに精いっぱいだった彼女と共にあったのは、苦悩、不安、怒り、惨めさであり、それらが晩年になって少し和らいだに過ぎない。

幸せという言葉で彼女が表していたのは、苦悩が減ったという意味だ。


もちろん、好きな人が訪ねてきたり、どこかに旅行に出かけたり、楽しい瞬間もあっただろう。

しかしそれらは恒常的な不幸の中での、つかの間の休息のようなものだ。


やがてあんなに元気だった体は衰え、ついには致命的な病を患う。

そんな中にあっても、最後までよりよい明日を願い続けていた。

そう、彼女の人生は願い続けることでもあった。

夢と希望が、自己の惨めさを緩和する唯一の方法だったから。



人生は苦しみだ。

それが死と共に終わりを遂げる。

死は、彼女という苦悩物語が終わった瞬間だった。


僕の中に残ったものは、それまでの彼女への記憶。

したがって彼女の死によって、その記憶の上塗りが出来なくなった。

変わったのはそれだけだ。

しかし、そこまでの彼女への記憶は心の中に残り続ける。

そのことを、「人は死後、残された者の中に生き続ける」と言うのだ。


彼女は実際には存在していなかった。

彼女の存在は、我々の彼女に対する記憶として存在していたに過ぎない。

本当は誰もいないのだから。



彼女はどこに行ったのだろう。

どこにも行くところなどない。

いまもなお全体として、「ここ」に在り続けている。

存在は永遠に「ここ」にあり、それ以外の在り方はない。


それはあなたも同じこと。

いまも全体として「ここ」に在り続けている。



人生は苦しみだ。

条件が改善されても苦しみは残り続ける。

そのような意味から言えば、人生はいま以上には良くならない。


もう一度言おう

「人生はいま以上には良くならない」


そんなことはないと言って否定するのは簡単なこと。

しかしこのことを認めることは、自分への最高の贈り物になる。

その時初めて人は、いまと向き合うことになり、いまの中で、あなたは消える。

あなたとは過去の記憶の総計のことだから。


同じように、肉体の死もあなたから記憶を取り去っていく。

そこに残るもの。

それこそが無条件に祝福されたあなたという全体。



母の死を見て思った。

閉ざされたエネルギーが、やっと解放されたことを。



今日の記事にはいろんな受け取り方があっただろうが、思ったままを書いてみた。

またそのうち、夢のある話でもしよう(^^)


でも今日話したことは、僕にとって一番夢のある話しだよ。


・・・・・・・・・・・


久しぶりに単独のお話し会をします。

30年前みたいに、自分の家で少人数制でやってみようと思います。

話の内容は当時と変わりようがないけれど、その瞬間に出てくる言葉があるはずです。

春分の日(3月20日)

会場は東京麻布です。

申し込みは明日から開始します。


そのうち沖縄でも始めるね。

猫カフェみたいな家です(笑)



Posted by Toshiro Abe at 09:37│Comments(97)
この記事へのコメント
もう一度言おう

「人生はいま以上には良くならない」

のところで、「え…」と希望がなくなったような感覚がありましたけど、同時に、今に引き戻されたのもわかりました。

いまの状況だいっきらいだけど、
今に居るほうが心地いい。不思議ですね。
Posted by よこ.Y at 2016年03月11日 09:46
「人生は今以上によくならない」
この言葉がすーっと入ってきました
この言葉にうなづける
やっとやっと
うれしい

沖縄リトリート
あの言葉にできない満たされた心地よい感覚
「わたし」の中にしっかりしみこんでしまった
いつでもそこにもどれる

ありがとうございました
Posted by はな at 2016年03月11日 10:00
阿部さん

ありがとうございます と言いたくなりました。

沖縄でのネコカフェお話会
行ってみたいなー

沖縄には一度も行ったことがないし、ネコだいすき^_^

これが私に起きるといいなぁー^_^
Posted by raran at 2016年03月11日 10:02
はじめてコメントします。
いつもありがとうございます。

この1年くらい、とても苦しく生きている実感があります。
父の仕事の後継として外の世界で勉強してから戻りましたが、父にはその世界のことが理解できず、全否定。

もともと息子である私のことを、「常にまだ足りない、まだまだ!ちなみに俺が一番だ。」って接してきた35年間ですから、そうなることは疑問はないですが、仕事のこととなると、じゃあ、何がしたいの?って思ってしまいます。

自分の存在価値を否定されて、自分で自分の必要性を感じなくなり、生きている意味がわからなくなった時期もありました。いまでもたまに。

苦しみの中にいると、原因さえなくなればその先には明るい世界がる、と思ってしまいますが、
阿部さんの「人生はいま以上に良くならない」などの様々な言葉で「いまここ」を思い出すと、
「あ、そうだった」と思い出して、すこーしだけ軽くなって、でも気付くとまたギューっと狭い視点になって…の繰り返しです。

今回の記事の最後、
「母の死を見て思った。彼女がやっと解放されたことを。」
で、あ、そういうことか。って思いました。
解放という言葉が、今の僕にはわかりやすかったようです。

これからも毎日楽しみにしています。
Posted by よつ at 2016年03月11日 10:03
まさに今朝、闘病していた父が亡くなりました。顔をみると身体はあるけれどそこに父はいなくて…。

身体を綺麗にしてもらっている間、阿部さんのblogを読みたい衝動にかられ訪問しました。
元々父はいなかったのか…、今は全体にとけこんでいるのか…頭がぐちゃぐちゃですが、タイムリーな記事をありがとうございます。
Posted by nanaco at 2016年03月11日 10:07
昨晩聴いた仏陀の臨終の様子を伝えている経典の朗読です。

本当に静かで穏やかな最期です。

「ブッダ最後の旅23 臨終のことば 」
https://www.youtube.com/watch?v=F9vc3RQwLWU


「さあ、修行僧たちよ、お前たちに告げよう。

 諸々の事象は過ぎ去るものである。

 怠ることなく修行を完成しなさい。」

これが、修行を続けてきた者の最後の言葉であった。
Posted by 大空(おおぞら)大空(おおぞら) at 2016年03月11日 10:43
「人生は今以上には良くならない」

…うん、うん。

こういうのも読みました。

「人生に意味はない」

…うん、うん。

「人生にゴールはない。『いま』がゴールだ」

…うん、うん。

違和感も「?」もなく、すんなり「ホントにそうだよなぁ」と思う。生きててよかったなあ~♪
Posted by 南部鉄瓶 at 2016年03月11日 11:05
昨日の自分より今日の自分を、
今日の自分より明日の自分が、

より良くあるようにと思い30年ほど生きてきました。

時にそのために努力をする自分を誇らしく思い、
時にそのための努力を怠る自分を不甲斐なく思ってきました。

いつも僕にとっての「今」は過去を評価するための結果であり、未来を築くための材料としての原因でしかありませんでした。

そんな概念としての時間をぶっ飛ばし記憶と想像でできた「そこ」から「今」へ帰ってくることが出来ました。

「今」まさに目の前には窓から見える青い空と肌寒い室温と目の前に置いたハロゲンヒーターの暖かさを肌で感じこれ以上もこれ以下もないという事を感じています。
Posted by スタバでコーヒー at 2016年03月11日 11:07
今日のような記事が当たり前になりました。

これは「人生」という言葉に対しての意味合いがなくなったからです。
これを聞いて苦しくなっていたのは「人生」という言葉を聞くとそれを生きる「私」から世界を創造していたから。

「私」が生きていかなければいけないのに人生は苦しいってどういうこと!?
いまよりよくならないってどういうこと!?
じゃあなんのために生きるの!?いま死んだらいいの!?
ってなっちゃってた。
そういう言葉にする前に、感じる前に、想念がでる前に、私がでる前に、
ある。
もうすでに。

いつもありがとうございます。
Posted by マイペース at 2016年03月11日 11:14
私も昨年夏に実父、暮れに愛犬と立て続けに先立たれました。
その時つくづく思い知ったのはお釈迦様の言葉。

この世は『諸行無常』であるが故に『一切皆苦(人生は思い通りにならない)』

苦は苦しいという受け止め方をするのではなく、私の思い通りになることは何一つ無いと知ることですね。
『私の思い』の、『私(起こることをコントロールする存在)』なんて実在しないのだからと、また同じことを書いてしまうわけでして(笑)

苦について、愛知県にある正圓寺さんHPのこの記事がコンパクトに要点がまとまってて好きです。

一切皆苦
http://www.tees.ne.jp/~shouen/ohanasi/osie/ku.html

一切皆苦を受け入れても良いし、私はいないことを知るのでも良いです。
アプローチの違いと申しましょうか。
Posted by 模察 at 2016年03月11日 11:35
その日はまだ日本にいないので参加できず、、、無念、、、しかしそれもまた、全体の調和なのでしょう。
Posted by クゥ at 2016年03月11日 11:53
私の場合、言葉にするとペラペラになってしまうのですが、
んーやはり伝えたいことを言葉にしようとすると逃げて行きます(笑)

今日の記事鼻がつーんとしました。
感動しました。
Posted by ままま at 2016年03月11日 11:56
夫が息をひきとる時もそうでした。
まさかこの時点で自分が死んでしまうなんて考えもしなかったでしょう。皆さん、まだ若いのに口惜しいことだったでしょうと仰ってくださいますが、その時、彼は微笑んでいました。息子と私に見守られながら、悔しい位に幸せそうな顔をして旅立ちました。解放されたんですね、だからあんなに穏やかに身を任せて微笑んでいたんですね、
悲しすぎて、寂しすぎて、参ったな、と呟きながら彼の最期の微笑みを思います。
Posted by たお at 2016年03月11日 12:12
人生は苦しみ。

死は、苦しみからの解放。

阿部さんは、本当にそう考えているのですか?

ご自分もそうなのですか?

驚きました。

マインドで世界を眺めているのですね。

残念です。
Posted by ひとこと at 2016年03月11日 12:17
<昨日のよしのさんの引用>

>自我が阿部敏郎という領域に現れると阿部敏郎として表現を行う。自我>が吉野太という領域に現れると吉野太として表現を行う。世界は自我の>自作自演。
>自我が「それ」


自我があかさん、ルシファーさんという領域に現れるあとかさん、ルシファ
ーさんとして表現を行う。

「思い通りにならないとおもうと、思い通りにならない人生」
「思い通りになると思うと、思い通りになる人生」

世界は自作自演。


あなたは、どちらを選択しますか。


・・・にしても、
「人が亡くなったこと」と、「思い通りにならないことに結びつける」
突拍子な論理。
思考はどこから来る?

付け加えとくよ♪
Posted by 日和る at 2016年03月11日 12:33
今朝は仕事のあいまに夢もみない睡眠を少しとった。

かんぜんに意識のとぎれもまったくなかった

意識だけ(夢なし)

あれ、今何時かな??が最初に思ったこと

しかし

その睡眠にはべつに喜びはなかった

退屈な空気といったほうがいい

自分の心が停止していた

意識だけ


これはきっと悟りの状態ではない

ただの自意識でしかないのだ

※いしきの外側に境界(端)はみあたらないが

※なんらかの制限があり

※これは他人の意識と共有されていないと直感で感じた

したがって他人のこころもわからない

…そろそろ誤りに気づいてきた
Posted by なう at 2016年03月11日 12:34
↑   ↑   ↑
誤記はくみ取ってね♪


「苦」について、アクア氏がブログで書いてるよ♪
Posted by 日和る at 2016年03月11日 12:43
失敗、間に入られちゃいますた。

めんご。
Posted by 日和る at 2016年03月11日 12:45
おはようございます。
・・・確かに一般受けしないですね、還暦を過ぎた先の短い永遠無死のおやじの、自分に言い聞かすかのような話しは、阿部家の家訓のみに留めてほしいですね(笑) ・・決して明日の卒業式で校長先生の祝辞や、入社式、結婚式、出産祝い、孫の成長やこの思いを抱えてのデート、プロポーズは暫く,いや、永遠に一般受けしそうにないですね(笑)・・・こういう思想を徹底して北朝鮮(北ならまじできそう)で社会実験てもらいたいなー ・・・たかだか70年?の人生「苦」にのたうちまわれるだけのたうちまわって、・・ざまあみろ奴は死刑を宣告されたぞ、「一生刑務所暮らしの奴らもいる」日本って良い国だな・・
Posted by てんぷす at 2016年03月11日 12:52
〉「人生はいま以上には良くならない」

・・・何と贅沢な!すでに最良ってことで、しかも人生がそうであるなら、いつもこれからもそうであり続けるんだ。でも、時々忘れちゃうけど。。
Posted by ipsum35 at 2016年03月11日 12:59
平成2年に初めて阿部セミナー受けた時、他の言葉は何となく分かりましたがこの話は違和感と抵抗で逆に忘れられずにいました。なんであんなこと言ったのかと。
そしたら今日ここに書かれていてなぜか今日はすんなり入ってきました。あれから人生は目まぐるしく変わったけどおっしゃる通り何も変わっていません。
いつも阿部さんは眩しいです。
Posted by Saturn at 2016年03月11日 13:22
人生にはいいことも悪いこともあった。
だからプラスマイナス0ですべてOKです。

ただ、今まで見てきた美しいもの、大切だと思えるもの、それらの記憶が自我とともに消滅するのだとしたらとても寂しい。

全体にとけたとき、何から解放されるのだろう。
Posted by ゆたか at 2016年03月11日 13:26
阿部さんの想像通りの反響でしょうか(笑)

常識という狭い檻の中に入りきらない今日のような記事を書くと、当然起こりうる事象ですね。
常識を掲げる人には、非常識と映っているのかな?
これまで一切疑うことがなかった自分の常識を刺激する記事に触れると、理解不能であるという恐怖感や嫌悪感が起こっていることと思われます。

ですが、常識という高く聳え立つ堅牢な壁は、何度も何度も叩かないことには決して壊れない。
禅の公案も、常識では説明理解できない話しを徹底的にぶつけて、常識の壁を怖そうと試みます。
今日の様な記事を一旦受入れ、なぜ嫌悪感や反発心が起こるのか、その原因となる自分の常識や信念とは何かと自分に問いかけることが、最初の一叩きです。

非常識だからと片付けて、自分の中に受け入れて咀嚼することを拒否するならば、それは壁を叩くことを止めることなのだから、常識の壁は相も変わらず聳え立ったまま。なにも変りません。
それと、常識の壁を壊すことができるのは決して他人ではありません。自分だけです。
Posted by 模察 at 2016年03月11日 13:28
私も、最高に夢のある話だと思える“派”ですね。

かけがえのない人・恩人が、十代、四十代の早逝で、不慮の死を遂げていますし、

また、子供の頃に、親に情操教育だからと、“人間様の都合”で、何度か、無理やり連れてこられて、あてがわれた犬や猫や、ペットを

その無邪気さゆえの感情に任せて、怒ったり、脅かしたり、

言うことをきかないと、叩いたりして、首輪を引っ張ったりして、

苦痛や恐怖を、味あわせて、毎日、生きることを、不安にさせたりして、“鬱”にして、しまったり、

そのように、住環境や、生活が、怯えや、ストレスばかりで、人間なら、発狂してもおかしくないのに、

たとえ、“子供心”に、“気づけない”とはいえ、思いやってやれなかったり、

昔も今も、気づかない、忘れている、知らない、とはいえ、、

傷付けたり、殺してしまったりする小動物や、たくさんの生き物たちを思えば、、

私などは、生きることに対して、積極的に、“甲斐”など、感じようも無く、

ましてや、“見いだす”など、とんでもないと、の、

“ストーリー”を、味わっていますので、

元々、生まれもしていないし、死んでもいない、、

そして、個人の感覚や感情も、、動物や、小動物たちの不安や恐怖、痛みや苦しみなども、

すべて幻想ならば、、、

「ああ、みんな!ウソだったんだって!本当によかったねぇ!」と、

(涙)してしまいます、、
Posted by y-be at 2016年03月11日 13:36
まさに、少し前に、その一般受けのしない話を私の中で気づきとして感じました。私が気づいたと言っていますが、その私自身の限界を知ったのです。個人である私とは、不足感、不安感、じっとしていられない、今になど入れない…。それが個人の私の正体なんだと。湧いてくる思考も感情も、すべてがその不足感などの要素から生じてくるから、一見ポジティブなことであれ、ネガティヴなことであれ、なんでも思うけど、本当はただ、その不足感を埋めるために必死。それが、個人のわたしの一生。自我の性質。自我とは、まさに、個人のわたしそのもののことですよね。個人のわたしには、見えない「いま」。だから、今、個人を超えて、いまある全体の中で、個人である私に見切りをつけ、何かがわたしの機能不全を発見しない限りは、今以上に幸せにはなれる日は来ないのですよね。
個人の私は、全体の私の表れだけれど、個人は死ぬまで不幸な人生 。
この体が元気なこの人生の間に、個人というエネルギーが死ぬ可能性があり、その可能性に気づいてもらいたくて、阿部さんは、この記事を書かれているのでしょうね。
Posted by 和菓子 at 2016年03月11日 13:36
阿部さん、
いつもありがとうございます。

誰かと比べて自分は、苦悩している。
または誰かと比べて自分は幸せだ。。

そう思い込んでいた時もありましたが、
人生は 皆 苦しみの連続。
道ですれ違う誰かとも、テレビの中の誰かとも
同じ苦しみを生きている。

その通りだと思います。
確かに とても夢のあるお話ですね!
Posted by みーちゃ at 2016年03月11日 13:38
死ぬのが楽しみ。 待ち遠しい。


昔 (  ・・わたしは どうなるんだろう・・  ) 

聡ったような若い人から、

  (  大丈夫   ちゃんと死ねますよ。   )


いまはでは もっと、ズーンと深みのある答えとして 持っている。

でも     聞いておけば良かった、と悔やまれる。


   で、     その時は “ いつ”ですか・・・・

  
Posted by 夕陽 at 2016年03月11日 14:05
いつも癒されたり、考えてさせられたり、お世話になっております。

沖縄でのお話し会の開催を、楽しみにお待ちしております(*^^*)
Posted by ANNE at 2016年03月11日 14:14
きっとそのとおりなんだろうなぁ、でもそうであってほしく無いようなきがしてしまうんだよなぁ、、(笑)

いつもノンデュアリティの話をありがとうございます。
僕も、この世はすべてないんだろうなぁ、夢なんだろうなぁ、と考えてますが、実体験としてはもう少しな感じです。

この世の存在に、「この世は無いんです、全部幻想なんです」って言える勇気に、阿部さんってすごいなぁ、と思いながら、、、拝読させていただきました。

きっと本当にコアな話は、直接会って少人数で話さないと伝わりませんよね
Posted by かわ at 2016年03月11日 14:35
私はあの世にいる時のイメージをたまにする。

そこは何故か宇宙船で、モニターがある。
私は◯◯様ぁと呼ばれていて、ちょっと行ってくるみたいな
軽いノリで地球に転生する。
傍らにいる天使みたいのが、「またそんなに厳しい設定に
なさって〜、んもー私がお守りいたしますぅ!」

とか何とか言ってる。

よくそんなアホらしいイメージがでる(笑)


最近よく思う。

現実世界で、あの世を感じていきたら現実に生まれてきた
意味そのものがなくなりはしないか?

現実の今を、より良く生きる為の精神修養なら良いと思うが。
Posted by あか at 2016年03月11日 14:39
阿部さん、ここに誰もいなかったこと、死とは「私」という苦しみの物語が消えていくこと、今に全てがあること、
すごくスーッと楽になり今に集中・感謝できます。
全部大丈夫なんだ。

どこにも向かっていなくて、全てが今にある。
今以上に幸せにはならない。

今、幸せでいます(^O^)
Posted by mika at 2016年03月11日 15:03
>あかさん

「現実の今を、より良く生きる」は同感です。

悟り、一瞥、空の体験、非二元体験、ワンネス体験、自分は存在しないという感覚、それらはすべて「現実の今を、より良く生きる」ための手段の一つにすぎないと思っています。
決して目的にはならず、手段です。
そして「現実の今を、より良く生きる」ためには、必ずしもそれらを体験する必要はありませんし、どれが一番良いということもないと思います。
他にもいくらでも「現実の今を、より良く生きる」手段はあると思います。
引き寄せの法則も、そのうちの一つに当てはまると思います。

真に幸せになる方法として唯一正しい手段があるはずだ、と考えることは不毛ですし、そんなものはありません。
自分が納得できる手段であれば何でも良いと思います。

もちろんその手段として悟りなどを目指すことも良いと思います。
しかしそれでも、それはあくまで手段であって目的ではないことを忘れてはならないと思います。
目的は「現実の今を、より良く生きる」です。

別件ですが、面白いあの世のイメージですね。
Posted by パンマン at 2016年03月11日 15:25
模察さんのコメントを読んで、バイロン・ケイティの「自分が大切にしているビリーフを信じるところから苦しみが生まれる」という言葉を思い出しました。

自分の信念を疑うというのは勇気のいることですね。

お父様亡くなられたのですね。
ずっと気になってました。

心よりご冥福をお祈り致します。
Posted by Sleeping B. at 2016年03月11日 15:46
「騒動」

こんなにしっくりくる言葉があるんですね。

ありがとうございます。
Posted by のいちご at 2016年03月11日 16:32
小さかった頃、初めて''死”を意識した時、
今感じている存在感が無になると思って、虚無感に陥ったことがありました。そして今、 存在感そのものが無になるわけではないと知り、安心しました。


身体から離れる感覚はわかりませんが、身体を超越した形で?存在感を感じられでもいるのかな?と想像してます。(わからないからその時になればでいいのですが(^^) )


そしてまた、誰とも離れることはない。
そんな風にも感じることがあります。


今日も世界が 愛と光で包まれますように。


※ わたしも漏れることなく包まれますように…w
Posted by 薄茶色 at 2016年03月11日 17:07
>彼女はどこに行ったのだろう。
>どこにも行くところなどない。

 よく名前が売れている人で江原啓之や美輪明宏
 さん達は、五感に触れる世界以外の世界があると
 言っており、魂というものがあり、死んだら
 その魂の波動に合った霊的世界で生きると言ってい ます。

 実際に死んだ人の存在を霊視するそうです。


 私は、全然そういう事は分かりませんから
 肯定も否定も出来ません。
 将来、霊界テレビでも出来て、あの世が映し出され なければ、肯定派、否定派とが存在するでしょう。


 だからと言って、彼らが嘘をついているのかと
 いうと、そのようにも見えません。
 麻薬患者のようなものだと言う人もいますが
 そのような非常識さは、ないようです。

>いまも全体として「ここ」に 在り続けている。

 実在は、それしかないでしょう。
 しかし、それは魂の旅が本当に終わった時、(この 世界 だけではなく、種々の波動の世界を経験し
 終わった時)
 往きつく世界だと、彼らは言っています。

 本当のことはわかりません。
 科学的証明はされてないのですから(笑)
 
 
Posted by T at 2016年03月11日 17:40
>でも今日話したことは、僕にとって一番夢のある話しだよ。

・・・(爆) 夢そのものの お話しですね。

苦しみは、夢ですね。人生には 苦しみがありますが、人生を体験する自分には

苦しみは「皆無」ですよね(笑)

阿部さんも たまには 世俗にまみれた(ふりをしたw)

記事を書かれるのですね。

>人生は苦しみだ。・・・あぶなく だまされるとこでした。

人生は「体験」だ だから 私は 苦しまないし いつも いつでも

「無傷」のままだ。って 書こうとは しなかったんですか?
Posted by AQU@AQU@ at 2016年03月11日 17:49
家族が原点なんですね。

同性の母に対する娘の私の思いは、もっと汚い思いだらけです。
そんな自分の被害妄想に最近少し気づき始めたけど、遅すぎかもしれません。

時間も空間も、ましてや人間は居ないそうですが、
私にとっての現実で有る家族の体験は他と比べようもなく、代わりがきくわけもなく。
意味も目的もなく、全てが顕れているなんて。
泣けてきた。
Posted by tomoko at 2016年03月11日 18:09
ここ、最近。

いろいろ難しいね♪

昨日から「常識」ってやつに、囚われてる人もいるし・・

うん♪思い通りにならないよ。
Posted by 日和る at 2016年03月11日 18:11
アクアさんに、座布団1枚!

苦しみはある、けれど、
人生は苦しみ、とは思えません。

時には一致しますね(笑)

阿部さんが、何に執着しているのか、何となく、わかりました。

"いまここ"への執着から自由になってこそ、
マインドを越えて、永遠の存在である真我(アートマ)に達することができます。

"いま"も"ここ"もないもうひとつの世界。

すべての存在は、そこから生じ、そこに帰滅します。

それは、永遠のサークル、展開なのです。

苦しみは、マインドの認識です。
苦しみだと思う"わたし"も、
苦しみを体験する"わたし"もいません。
ですから、苦しみはありません。

阿部さんも、そのことはよくご存じのはず。

"生"と"死"は、ひとつのものの別の顕れです。
それがわかったとき、人間は肉体を越えた永遠の存在となるのです。
Posted by 姉御より余計なひとこと at 2016年03月11日 18:27
もう一点だけ、する~できない感想を 書いて、いきます。

>>「人生はいま以上には良くならない」

今 起きていることしか 起きていないのだから・・・っていう 意味合いかと思います。

苦しみのない 人生を経験すると、人生は劇的に 良くなったって 私は思いましたよ。もう 慣れちゃいましたけど(笑)

多くの人にとっても そうだと 思います。

阿部さんが 苦しみを超越されたように、私達の人生から

「苦しさや生き辛さ」といった 概念が根こそぎ 無くなれば
(単なる感想が固定化して、概念となった実際を見抜けば)

人生の日常や 些細な出来事に 至るまでの全部に際して

「苦」を感じる場面や曲面は「皆無」となりますよね?

体現者?には 普通のことですから、よく お解りかと 思います。

たいした ことじゃないですよね。

ただ 現実には まだ 多くの人達が 自我意識を自分自身だと信じて

苦しみの中に 埋没しています。

阿部さんの活動を 機縁として 多くの人達が、苦しみの存在しない 人生を

体験できますことを、心から 願っています。

阿部さん 共に、この真理への誘い役を 務めてまいりましょう♪
Posted by AQU@AQU@ at 2016年03月11日 18:44
>「人生はいま以上には良くならない」
まさにその覚悟が出来たなら(自力? それとも他力?)、そこに新たな別の何か(並行宇宙!?)が出現する感が有りますね。

今以上に良くしょうとするのは過去の延長線上に在り、過去なるイメージを参考にすればこそ今以上の状況が想像できる分けでしょう。
我々には現在は思い描けない(イメージできない)未知なるものあれば、過去が無ければ未来を想像できない分けで、良くしたいという思い(イメージ)も湧かない分けでしょう。

いま苦しみに喘いでいたとしても、「自分の人生はいま以上に良くはならない」と、エゴによる囚われを超えて、そして天に向かい高々と宣言するなら(*'◇')/ ハイー
そのとき過去や未来は重要度を失って、そこには未知なる何か(いまここ)が現れるのだと思う次第なんですけどね...(滝汗)

(;`▽´)_旦~~ <汗かい茶った>
Posted by 茶呆 ♪ at 2016年03月11日 18:58
AQU@さん、姉御さん

人は常に何かを求めている。

その何か求めている状態が苦しみ、だということでしょう。

阿部さんの言っていること、そんなにおかしいように思えませんが。。
Posted by rakuni... at 2016年03月11日 19:04
人生いま以上によくならない。いま、しかないから、良いと感じるか悪いと感じるかは、その人次第。でも、いましかないからくらべられるのかなって?思った。
Posted by 尚 at 2016年03月11日 19:04
それは阿部さんや智子さんであっても同じということですか?

お二人とも今の私にとっては雲の上の存在なので、そうであれば私にとって夢のある、救われる話やなって思います(^_^)a
Posted by あきら at 2016年03月11日 19:14
多角的な視点

そこから言葉を紡げる者の内的宇宙は限りなく広い

視点ではなく、紡がれる言葉そのものに囚われる者の宇宙は

その者の語る世界とは似ても似つかないほどに狭い、故に

逆にその視点に執着してしまう
Posted by かみゆ at 2016年03月11日 19:17
〉Tさん

「本当のことはわかりません。科学的証明はされてないのですから(笑)」ですが、科学的に証明されても本当のことは分かりません。

科学は、仮説です。なので「本当のこと」である保証はないのです。反証可能性とも言い、要するに「やっぱり間違ってましたという証拠が出せる可能性があるもの」が科学です。
科学は正しいもの、というのが一般的な認識だと思いますが、実は逆で、正しくない可能性があるものが科学なのです。

例えば、「物質は原子からできている」というのも仮説です。もしかしたら原子からできていない物質が見つかる可能性があるからです。人間が観測できている物質なんて宇宙全体の極々一部なので、そのような物質が見つかる可能性は大いにあります。

逆に、例えば「神様はいる」というのは、いないという証拠が出せないので、科学ではないのです(いるという証明も出せないですが)。

よくスピリチュアルの世界で、「科学で言ってることとも合ってるでしょ。だからこの考えは真実なんですよ」という説明をする方がおられますが、上でも述べた通り、「科学で証明されているからといってそれが本当であるという保証はない」のです。
Posted by パンマン at 2016年03月11日 19:29
阿部さん、こんばんは


存在は永遠に「ここ」にあり、それ以外の在り方はない

この一行に、阿部さんのメッセージが凝縮されているような
印象を受けました
今ここ、リーラ
阿部さんのアイデンティィ、生き様と言っても
よいのかもしれません

まったく余計なお世話の独り言をつぶやきます
さとうみつろうさんやHappyさんは、
一般受けする(しているように見える)タレントさん

阿部さんのアイデンティティとは相容れないような
直感を抱きました


ありがとうございます
Posted by 朴念人 at 2016年03月11日 19:31
rukuniさん

ごめんなさい。
余計なひとことが過ぎましたね。
 
ただ、人生は苦しみ、だとすると、
その苦しみから逃れるために死を選ぶ、という選択に、
まった!をかけられなくなるように感じました。

その選択は、個人の自由、だと言えば、そうでしょう。

しかし、人生で感じている苦しみは、マインドが観ている幻想であって、
むしろ、人生は苦しみなどではなく、
見方によっては、創造の可能性に満ちた祝福された時間になることだって可能なのです。

その可能性に目覚めるかどうか、で
人生は大きく変わってくると思います。

苦しみは、むしろ、この可能性に目覚めさせるために起きている、と感じます。

苦しみはチャンスの時。

目覚めへと誘われているのだと思えば、有り難いですね。
 
多くの人に、祝福がありますように。
Posted by 姉御より余計なひとこと at 2016年03月11日 19:36
姉御より余計なひとことさん・・・? リーラ姉さん?

お~~~ 私の上に いたぁ、今 気が付きました(笑)

>>時には一致しますね(笑)

あのねぇ、 全部なの ぜ・ん・ぶ・♪ おかえり~~~ 淋しかったっす。
Posted by AQU@AQU@ at 2016年03月11日 19:40
「人生は今以上によくならない」
 「人生は今以上に悪くはならない」
Posted by tt at 2016年03月11日 20:02
エゴ(自我)の墓場は、「今」という事ですね!

しかし最近は「お話会」流行ですね~。^^
Posted by 近藤 at 2016年03月11日 20:21
「今が幸せじゃないと、
過去も未来も 幸せじゃない。」

の方が安心できるな〜。(^ ^)

沖縄で猫カフェ・・・

行きたい・・・

でもオッサンだから恥ずかしい・・・(笑)
Posted by 打ち水庵 at 2016年03月11日 20:32
ルシファーさんはよしのさんだと思ってたけどあかさんでもあるのですか?

なぜ???
Posted by こじか at 2016年03月11日 20:40
姉御さん

返信ありがとうございます。

> ただ、人生は苦しみ、だとすると、
> その苦しみから逃れるために死を選ぶ、という選択に、
> まった!をかけられなくなるように感じました。

なるほど。よくわかりました。

それと、コメント書きたくなったら、
何時でも戻ってきてくださいな。
Posted by rakuni... at 2016年03月11日 20:49
バンマンさん、貴方の言わんとすることも仮説であるなら、仮説は単に否定するものでは無く、それを認めて「   」を感じる? 為に有るのではないでしょうか!?

http://ishinkigyouka.chips.jp/kikuda/?p=1956
Posted by 茶呆 ♪ at 2016年03月11日 20:52
届く(癒される)視点の人は必ずいる

同時に届かない視点もある

届かないなら無理に受け取らなくてもいい

自由だよ♪
Posted by かみゆ at 2016年03月11日 20:58
いつもありがとうございます。
Posted by ほったん at 2016年03月11日 21:01
いまが最善!
Posted by aoi at 2016年03月11日 21:01
2年前の夏に父があの世に帰って行った。

心配性な性格で、ありもしない心配をしてくれる人だった。
心配されると、それが起きないかと気がかりだった。
嫌で嫌でたまらなかった。

父が心配性のために苦しんでいると思っていた。

病気になって、お腹からパイプたらして生きていた。
それでも、人を心配していた。
最後には、声も出せない状態となった。
そんな父が不憫でならなかった。

わたしは、
「いままで、ありがとう。もういいんだよ。」と語りかけた。
答えはなかった。

父が亡くなったのは、次の日の早朝だった・・・。

安らかな顔だった。
それを見て、わたしは、・・・

父が心配性を楽しんで生きていたんだと感じた。
私が考えていた苦はなかったと思った。

そして、
人はどんな生き方をしても、全てを楽しんで生きているんだと思った。
Posted by お節介なひと言 at 2016年03月11日 21:02
アクアさん

久しぶりに覗いたら、
阿部さんの今日の記事の内容に、びっくり仰天、驚いたので、
いつもの癖で、書きたいことを書いてしまいました。

このコメント欄を混乱させる意図は、まったくありませんが、
結果として、阿部さんに反論する形となってしまい、
阿部さんファンの方々の気分を損ねてしまったかもしれませんね。
(阿部さん、みなさん、ごめんなさい)

でも、アクアさんと一致したことが、とても嬉しかったです^^

ここは、もう大丈夫ですね。
アクアさんがいらっしゃるので、お任せします(笑)

これからは、余計なひとことは、慎み、
観客席で楽しむといたします(笑)

ありがとうございました♪
Posted by 姉御より余計なひとこと at 2016年03月11日 21:09
〉茶呆さん
仮説を否定しているのではありません。
仮説は仮説であり、本当である保証はない、というだけです。
そして、本当でないからと言って、役に立たないということでもありません。
仮説でも十分に実用に耐えるものもあります。
Posted by パンマン at 2016年03月11日 21:14
阿部さん、今日もまたありがとうございます!沖縄でのお話会に行ってみたいな〜♬
Posted by Candle at 2016年03月11日 21:34
「いま以上の幸せは無い。」という思いを、人生で何度も感じました。

「いま以上の苦しみは無い。」という思いを、人生で何度も感じました。


しかし振り返って比べてみようとしてみても、うまくできません。
『 "いま"感じている 』以上って、確かに、無い。と思います。
Posted by 5匹目の猫 at 2016年03月11日 21:35
パンマンさん
>科学は仮説です。

 それを基に、現実的に実用化されるものが
 出来ないと仮説の域であるということですね。

 霊界テレビとか波動調整機とか・・・etc
Posted by T at 2016年03月11日 21:37
あ~、あべ兄貴!!

この、コメント見てくださるかしら?
今日みたいな、お話し興味深くて好きです。
3月20日、欠席です。

単身赴任の夫が帰ってくるって、
確認したから(涙)

いきたかったなあー

あべさんの、お家(ハート)

機会あれば、会えますね。


もう、酔っ払っちゃってます。

あべさん、ありがとう♪
Posted by らんらん at 2016年03月11日 21:56
姉御より余計なひとことさん

誰しも仮説の域を出ていないのですから、
本当に書きたいことを書いていいのではないですか。
阿部さんは、より多面的にコラボされてるくらいですから、反論も滋養強壮剤にされますよ(笑)
Posted by T at 2016年03月11日 21:57
あ~、あべ兄貴!!

この、コメント見てくださるかしら?
今日みたいな、お話し興味深くて好きです。
3月20日、欠席です。

単身赴任の夫が帰ってくるって、
確認したから(涙)

いきたかったなあー

あべさんの、お家(ハート)

機会あれば、会えますね。


もう、酔っ払っちゃってます。

あべさん、ありがとう♪
Posted by らんらん at 2016年03月11日 21:57
あ~、あべ兄貴!!

この、コメント見てくださるかしら?
今日みたいな、お話し興味深くて好きです。
3月20日、欠席です。

単身赴任の夫が帰ってくるって、
確認したから(涙)

いきたかったなあー

あべさんの、お家(ハート)

機会あれば、会えますね。


もう、酔っ払っちゃってます。

あべさん、ありがとう♪
Posted by らんらん at 2016年03月11日 21:57
あ~、あべ兄貴!!

この、コメント見てくださるかしら?
今日みたいな、お話し興味深くて好きです。
3月20日、欠席です。

単身赴任の夫が帰ってくるって、
確認したから(涙)

いきたかったなあー

あべさんの、お家(ハート)

機会あれば、会えますね。


もう、酔っ払っちゃってます。

あべさん、ありがとう♪
Posted by らんらん at 2016年03月11日 21:57
みんな自分がいると思っているのに…

本当は誰もいないんだよ

と言えば受けないですよね

怒られますよね

俺はここにいるぜ~

でも

本当は誰もいないということは

死んでしまう人は誰もいないということでもあって

本当は愛しかないということなんですよね


愛☆愛☆


ありがとうございます
Posted by 甲賀忍者 at 2016年03月11日 22:02
人生は苦です。
死は苦からの解放です。
しかし無に帰することは楽か?
苦から解放されるのだから楽だと思うことは幻想です。

死んでもそこには楽も幸もない。
何故ならそこには苦が存在しないから。
苦を知らなければ楽を知りようがない。

この世は諸行無常であるがゆえに、楽あれば苦あり。苦あれば楽あり。
常に楽や幸であり続けようと願うこと自体が苦を生むのです。
人生は苦であると明らめる(諦める)ことが苦からの解放へと導くのです。
Posted by 模察 at 2016年03月11日 22:05
『それこそが無条件に祝福されたあなたという全体』


そっかあ~~(^^)



って、わかるかー!笑


m(__)m



子供の頃、

不機嫌なことが多い父親に、いつも「気づいてほしい」と感じてた。

考えてみれば、何に?なんだけど、自分でもよく分からないでいたけど、


「気づいてほしい。私たち本当は…ほんとうは、もっとこういう存在なんだよ」って…


私だって、忘れているのに。


ずっと気づいてほしかったけど、私も忘れているから伝えようがなかったのかな…


ある日、お坊さんに「死んだらわかるさ」と言ってもらい、

妙に安心して、気づいてほしいって思わなくても大丈夫だと思った。


私が不思議な体験をしたのは、それから何年も経ってからだけど、

もっと早くに思い出していたら、父に伝えられただろうか…


言葉の限りを尽くしても、伝わらなかったと思う。

求める気持ちがなければ、聞く耳も、持たないと思うから…
Posted by ようこ at 2016年03月11日 22:06
らんらんさん おもしろーい!

酔っぱらっってる感が まんま出てて ほっ!のぼの 笑

三回なんて序の口 y-beさんなんか、、、以下略^^
Posted by ドンマイ at 2016年03月11日 22:33
一般受けしない話しを食い入って読んでる私は、
明らかに一般ではないという事を自覚しました。(笑)

人生今以上良くはならない!
阿部さんがこう言われるたびに、いつも今に引き戻されます。
私の座右の銘になりそうです。

阿部さんのお話や模察さん等のコメントを読ませて貰っていると、
生きるという事を全く別の角度で見つめさせられます。

ううん、深いですね。

菜穂さんなら、
「それも全て愛」
って返ってきそうな気がします。^ ^
Posted by Ann at 2016年03月11日 22:35
バンマンさん、原子は仮説だと言いますが、顕微鏡から見て取れた原子を元にし、そしてそれを実用化したのが原子爆弾である以上、Tさんの言葉を借りるならそれは仮説とは言えない分けでしょう。
まぁでも、もしも並行世界が有るとするなら、原子ではない世界も有るのかも知れなくて、でもそれこそ仮説の域をでない分けで。

というか、こうして我々がコメントしてること自体、既にマトリックス世界なのかも知れなくて。
この世とは、脳だけがガラス容器に浮かんでて、その脳が見ている幻想なのかも知れなくて、けどこれをどうやって違うと説明できるかが分らない始末でして。
なので、これを違うと言えなければ、実用化された原子爆弾もまた、仮説というか幻想ということに成るのかも(´-ω-`;)ノアイヤ
Posted by 茶呆 ♪ at 2016年03月11日 23:01
近藤さんの 清々しい 1行目に 笑ってしまいました! (笑)

近藤さんに清々しく言われると、なんかツボでした (笑)


人それぞれ いろんなカラーがあって おもしろいなあと思いました。
Posted by 薄茶色 at 2016年03月11日 23:08
明晰夢(マトリックス)の中では、五感を感じることも出来る分けです。
けどそういえば音は聞いたことが無いような気がする、今度聞いてみよっと(笑)
Posted by 茶呆 ♪ at 2016年03月11日 23:13
届く、というのは頭の理解ではない

それは感覚的なことであり、エネルギー的な解放だ

どちらかと言うと必要なのはこっちのほう

だからピンと来ない人にとっては

まさに必要ないことであって

それで困ることはなにもない

ただ視点(彩り)が皆違うだけだから
Posted by かみゆ at 2016年03月11日 23:13
×けどこれをどうやって違うと説明できるか・・・・・

○けどこれをどうやって証明できるか・・・・・
Posted by 茶呆 ♪ at 2016年03月11日 23:17
姉御より余計なひとこと at 2016年03月11日 19:36 さん。
>ただ、人生は苦しみ、だとすると、
>その苦しみから逃れるために死を選ぶ、という選択に、
>まった!をかけられなくなるように感じました。

それは心配ないでしょう。
もし苦だと見抜けば、それは苦を離見してのことであり、苦の囚われから脱したと見ても良いかと。
逆に、単に人生は苦だと聞いただけなら、実際には人生を苦だとは感じてない分けだろうし。

自殺をすれば無間地獄(何度も同じ人生を繰り返すこと)に陥ると言う話が2ちゃんねるで話されてますが、これが事実だとすれば、どんなに苦しくても自殺も出来なくなる分けです。
となると、あとは苦なる夢から目を覚ますしか無い分けでしょうか。

肉体の痛みに我慢しきれなくなると、気絶するか或いは明晰夢に陥るかはたまた幽体離脱するかで、これは精神の自然治癒力と見なせないこともないでしょう。
そして、苦というエゴの働きを我慢しきれなくなると、自我は気絶するしかなくなる分けで、これは正に魂の自然治癒力(大生命への回帰?)ではないかと(爆妄想)

それではグッナイトです(-_-)zzz
Posted by 茶呆 ♪ at 2016年03月11日 23:56
パンマンさん

> 科学は、仮説です。なので「本当のこと」である保証はないのです。

このことをきちんと理解している人って、案外、少ないですよね。

科学者自身も理解していない場合もありますしね。
Posted by rakuni... at 2016年03月11日 23:57
〉茶呆さん
顕微鏡で見れても、原子爆弾が作れても、それは「地球でだけ成り立つ理論かもしれない」という意味で仮説なのです。
じゃあ地球では仮説じゃないんでしょ、と言われればそうなのかもしれませんが、宇宙全体として、すなわちこの世界として真実なのかと言われれば、やはり仮説なわけです。
繰り返しになりますが、仮説だから役に立たないと言うわけではありません。地球で役に立てばいいでしょ、という考え方だってあります。道具主義です。
科学的に証明されたことが絶対的な真実だとは言い切れませんよ、私が言いたいのはそれだけです。科学的証明=真実、と勘違いして不幸になることがあってはならない、と考えているのです。

また。脳だけがガラス張り容器に浮かんでいて、、、というのは「水槽の脳」として19世紀の哲学者フッサールによって「それが本当か嘘かは証明不可能」と結論付けられてますね。さらに言えば、フッサールは「別にそれで構わないでしょ」とも言っています。
Posted by パンマン at 2016年03月11日 23:59
ちなみに、科学といっても、数学は別物扱い。
Posted by rakuni... at 2016年03月12日 00:04
昔読んだ五木ひろゆきさんの、大河の一滴、という本に
人生は苦しみの連続なんだよ、って書いてあった。
その時は手厳しいなと思いつつ、忘れられない言葉でした。
今、改めて聞いたこのメッセージは、心に染み渡るような感じです。
むきにならなくていいんだよって言われているような。

そして、阿部さんのお母様は素晴らしい人生を送られたのだと、
心から思いました。

四季を感じるように、ただひとつになるまで過ごす。
そんな風に感じました。

この身体が自分であると思える事、
苦しみとつかぬ間の幸せを繰り返すストーリー、
やはり、かけがえのない事なんだな、と思いました。
Posted by サウナ at 2016年03月12日 00:20
〉rakuniさん
科学者自身は、、、どうなんでしょう?私は、そんなこと百も承知で気にせずやっているようにも見えます(笑)

また、「数学は別物扱い」とは、数学は仮説ではなく絶対的に正しい、ということをおっしゃっているのでしょうか?(違ったらごめんなさい)
Posted by パンマン at 2016年03月12日 00:20
阿部さん
今日はいろいろと忙しくて、こんな時間になってしまいました
人生はいま以上には良くならないんですか
はい、わかりました^_^

ありがとうございます
Posted by ふわ at 2016年03月12日 00:26
この二元でこう言うのって、危ういとは思いませんか?
これ、誤解が生まれると思うんですよ。

「じゃあ、死にますね」

とか。
Posted by ただの「私」 at 2016年03月12日 00:41
パンマンさん

数学は絶対的に正しいと決めれるところまで対象範囲を限定しますからね。
物理学などは人間がコントロールしきれない自然を対象としているため、おっしゃるとおりどこかで妥協が入るので数学ほど厳密ではありません。
ちなみに地球で唯一宇宙を記述しうる言語は数学だとバシャールは言っています。

科学を絶対視している人を見ると、科学という宗教があるんだなと思います。
Posted by 万年筆 at 2016年03月12日 00:46
> 科学者自身は、、、どうなんでしょう?

非科学的なものを否定する科学者がいますよね。
例えば、そういう人たちです。
そういう人たちって、科学が原理的に疑い得ることを無視してたりする。
非科学的なものって、科学をもっては、否定も肯定もできないのに。

> また、「数学は別物扱い」とは、数学は仮説ではなく絶対的に正しい、
> ということをおっしゃっているのでしょうか?

そうですね。
実験が不要な学問という意味です。
正確な言葉は忘れましたが、ピーターフランクルが
「この宇宙で証明された数学的事実は、どんな宇宙でも成り立つ」
というようなことを言っていました。

以下、科学は仮説について、私が考えたストーリーです。

なんで仮説なのか。
それは、この世が夢である可能性を否定し切れないから。

物理法則を持っているこの宇宙が、もし、夢ならば
実在していると思っている、この宇宙が夢ならば、
次の瞬間、その物理法則が滅茶苦茶になる可能性がある。
だから、実証された理論であっても、
次の瞬間には成り立たないかもしれない暫定的な理論といえる。

映画 マトリックス を例とすると、
物理法則は、バーチャル世界のプログラミングされたロジックであり、
次の瞬間、別なプログラミングが実行される可能性がある。
やっぱり、これも暫定的な法則といえる。
Posted by rakuni... at 2016年03月12日 01:00
あたまいいひとばっかいる…

by 5匹目の猫
Posted by すごいなぁ… at 2016年03月12日 01:11
危ういというのは

>でも今日話したことは、僕にとって一番夢のある話しだよ。

これを「確かにそうだ」と、この二元で思ってしまうという事です。
死への憧れです。

「死への憧れ」は、誤解ですか?誤解ではないですか?
それを、この二元で、自ら選択してしまうのは、誤解ですか?誤解ではないですか?

こう書いてる私も、そのへんあやふやなんです。
なので、せいぜい「私」を楽しんで生きていこう、と思っています。
Posted by ただの「私」 at 2016年03月12日 01:15
〉万年筆さん、rakuniさん
コメント興味深く拝見いたしました。

私は数学でさえ仮説にすぎないと考えています。
なぜなら、数学は公理と言われる大元の前提の上に積み重ねられた理論体系だからです。
公理が正しければ、そこから積み上げられた理論はすべて正しい、というのが数学ですが、公理の正しさは証明できない、という根本的な危うさがあります。

公理の一例として、次のものがあります。
「a=bかつa=cならば、b=cである」

これは正しいですか?と言われれば、多くの人は正しいと答えるでしょう。
しかし、ではそれが正しいことを証明してください、と言われても、証明することは不可能なのです。
それが公理です。

いやいや、どう考えたって正しいでしょ、と言うしかないのですが、それはあくまで「なんとなく正しいと思う」というレベルであって、確固たる証拠はないのです。
逆に言えば、それが人間の思考の限界なのです。

もしも人間とはレベルの違う頭がいい宇宙人が来て、「は?a=bかつa=cならば、b=cである?そんなの成り立つわけないじゃん(笑)」と言われても、人間に理解できないのです。

なので数学も「人間の思考の範囲内においては正しい」としか言えず、つまり絶対的な真実だという保証はなく、その意味で仮説にすぎないと私は思うのです。
Posted by パンマン at 2016年03月12日 01:24
パンマンさん

おっしゃる通りだと思います。
公理が成り立つということにして、その範囲の中でなら絶対的に正しいのが数学だと理解しています。
Posted by 万年筆 at 2016年03月12日 01:53
生きてる限りは身体があるので、分離(苦しみ)は起き続けます。

けれど、分離(苦しみ)を感じられるからこそ、分離していない状態である 、すべてはひとつ・非二元(歓び、その愛に溢れた感覚) も認知できます。二元の世界だからこそ、対象化して それらを感じられます。


すると、分離は苦しみなのか? それとも 歓びなのか?


どちらにも受け取れます。


何を選ぶかは自由 というのが この世界 なんですね

(一番遠巻きに見れば ”起きている”が オチということで ♪チャンチャン^^;)
Posted by 薄茶色 at 2016年03月12日 02:41
今まで「ただの~」と名乗ってきましたが、正直ほんと、自分の名前を付けるのに違和感があるんです。
それどころか、「僕」「私」等の一人称すら違和感ありまくりで、でも、ふと閃きました。
ただ「自」ずから「分」かれた者、「ただの「自分」」です。気分で、また変わるかもです。

二種類の人が居ると思います。感情や周囲に振り回されている人、感情や周囲の中でその時々なりに一貫した態度を表現しているように見える人。
そして、二種類の前者が居ると思います。その時々の感情に飲み込まれている人、その時々の感情に違和感を持っている人。
自分の場合、前者の後者でした。感情に振り回されていて、何故かと言うと、その時々の感情に「なんか違う」と違和感があったからです。

振り回されるのは嫌なので、まず、振り回している(と思い込んでいる)その対象、感情や自分の行動を見極めようと努力しました。
繰り返しているうちに、それら全てが自分であると知り、違和感が無くなりました。
そして、感情や行動を俯瞰していると、それを俯瞰している「自分」が立ち現われてくると、なんとなく感じてました。
感情も周囲も、その時々で変わるけど、その時々なりに、自ずから分かれた自分というものが立ち現われてくるのだろうと、そう理解しました。
後で、ヴィッパサナー瞑想というものを知りました。

多分それが、上記に挙げた後者の人、感情や周囲の中でその時々なりに一貫した態度を表現している人じゃないかと思いました。
そういう人を見ていると、安心感があるんです。また、自分が充実感を覚えたり、幸せな時って、思い返すと、そういう状態にある時なんです。
そういう状態の時って、執着とか、抵抗感とか、そういうエネルギーを感じないのです。スムーズに流れていくと言うか・・・

阿部さんが「私というエネルギー」と表現し、それが死ぬと表現しているのは、執着とか、抵抗感とか、そういうエネルギーの事ですか?
それで合っているのであれば、確かにそうだと思います。
Posted by ただの「自分」 at 2016年03月12日 02:45
人間が苦しみ始めるのは、多分みな似たようなタイミングでしょうね。

おそらく、中学生あたりから?
思春期とかいいますよね。
このころから知性が発達して、概念の世界での分離状態に
なってくる。

現象としては、幼少期も、同じような苦の現実はあったはずですが、
感情が素直に作用して、それで次の瞬間にすんなり移行してただけだと。

仏道はゆえにその急所を攻めるわけです。

発達した知性、思考、思考による囚われ、その分離状態における
ノイズのような雑念。思考と概念の中にいないと落ち着かなくなった
状態で今が濁っている。

それを純粋な赤児のクリアな状態に戻す。
単に自然体に戻すだけ。

すると人間本来の今、純粋な今、隔たりの取れた今となり、
今、現実現象は変わらず楽も苦もありながらも、幼少期の
頃のように素直に感情を発揮して、それそのものに生きること
ができる。

人間は感情がある。悲しい時は悲しい!で泣くのが人間を生きると
いうこと。怒る時は怒る!それそのものが人間です。

ところが、知性概念に囚われ、膨れ上がった自我で怒るとその抑制
がきかなくなって、殺人、戦争へと発展してしまう。

だから、本来自然に戻れば、楽も苦もそれそのものにして、味わい
人生今一瞬を謳歌して生き、かつ戦争などおこらない。
動物のように自然と調和した本来ありのままの姿となる。

その概念が出てくるのは、今、消えるのも今、囚われるのも今、
怒るのも今、苦しむのも、今、今自身に起こっている事は、今
全てに喚起するのだから、今今今余念なく生きる。

その今に生きるには思考や概念や知性を用いては不可能だから。
我を忘れて只、目の前にある事実に没頭せい。我を忘れ切れば
思考や概念という癖、囚われから解放されるぞい。

という事でしょうな(^^)
Posted by あか at 2016年03月12日 03:27
 
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