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【東日本大震災5年】
トモダチ作戦は「義務ではなく、愛によるものだった」 元在日米軍司令官
2011年3月11日午後2時46分、横田基地にある在日米軍司令部。バートン・フィールド司令官は、第5空軍の面々と会議を開いていた。「いつもとは違う大きな揺れ」に、建物から外へ飛び出した。
揺れが収まるのを待ち、全ての在日米軍基地に異常がないか確認するよう指示した。問題は他からやってきた。11機の米民間航空機が羽田、成田両空港が閉鎖されたため、横田基地へ向かうというのだ。
慌ただしくジョン・ルース駐日米大使に電話をした。だが、連絡が取れず、携帯電話も不通だった。折木良一統合幕僚長、ハワイのロバート・ウィラード太平洋軍司令官らとも連絡を取り合った。その直後に、最初の民間機が横田に飛来した。
福島第1原発の1号炉付近では爆発が起き、フィールド司令官らには「損傷の程度や、他の炉が同様の状況にあるのかどうか、分からなかった」。
頭はせわしなく回り始めていた。「事態がさらに悪化したら、どう対応するのか。(日本政府などから)要請された場合、米国人と他の外国人、日本人をいかに避難させるか」…
自衛隊の依頼を受け米軍が担ったのは、小学校などの清掃と、救援物資を空輸できるよう、使用不能状態にあった仙台空港を再開させることだった。