第48回 昇級を捧げる
2016.03.11更新
3月10日午前2時半。
第74期順位戦B級2組最終一斉対局の結果、彼がB級1組への逆転昇級を果たしたことを知った。
直後のインタビューには「名人」という文字があった。
棋士の言葉だった。
3月10日午後11時半。
電話越しの彼は、いつもの彼だった。
でも、微かな高揚の体温を声の中に感じ取った。
いや...まだちょっと信じられないです。
聞いた時は驚き以外になかった。
正直、上がれるとは思っていませんでした。
父を1月に突然亡くして、気持ちが沈んだ中で将棋を指してしまっていました。
俺はプロなんだから、なんとかしろよ、と思っていましたけど...。
普通の心ではいられなかった。
心にポカンと穴が空いてしまっていました。
だから、父が導いてくれたとしか思えない。
名人を諦めるな、と言ってくれている気がします。
僕は父に将棋を教わったんです。
6歳の時、保育園で女性の先生に負かされて悔しくて。
父が教えてくれるようになりました。
アマ初段くらいはありましたから、全然勝てないんです。
うちは蕎麦屋をやっていて、店番の空いてる時間によく指しました。
少しずつ教えてもらって、気付けば道場に通うようになっていました。
棋士になりたいと言った時は、まあダメならうちを継げばいいじゃん、みたいに軽く言ってくれて。
でも、棋士になったことを誰より喜んでくれたのも父でした。
亡くなった後、遺品整理をしていたらビックリしたんですよ。
僕が小学生名人戦で準優勝した時、スタジオでこっそり撮っていたらしい写真とか、僕の将棋の新聞観戦記の切り抜きとかが全部出てきたんです。
全然知らなくて。
父は昭和8年生まれだからインターネットとか全く出来ないので、やっぱり新聞の切り抜きなんですよね...。
僕の奨励会時代の成績をつけたノートなんていうのも出てきました。
父は〇●〇...9勝3敗で昇級、とかって僕の勝敗を全部ノートにつけていた。
父を亡くした直後の順位戦で糸谷(哲郎)さんに負けて、昇級はほぼ絶望的になりました。
でも、みっともない将棋は指せなかった。
ひたすら、ただ精神力で指していた。
僕は棋士だから、乗り越えなきゃいけないんですよね。
気持ちの整理が着いていなくても。
B2まで上がった時、父は「もっと早く上に上がってくれ」と思ったと思うんです。
名人を諦めるなよ、って。
昔の男ですから。
B1に上がれば、A級に上がる可能性だってある。
手の届くところまで行けるかもしれないんです。
棋士なら、名人になりたいと思い続けるのは当然だと思う。
B2でいいや、B1まで行けたらいいや、なんて思うなら、棋士なんて辞めた方がいいと思ってます。
父は榮一と言います。
82歳でしたけど、元気で、俺は90までは生きるぞ、と言っていたんですけど。
朝、報告しました。
今回の昇級が家族の光になればいいと思います。
私は普段、飯島栄治七段を「飯島先生」と呼んでいる。
親しくさせてもらっているつもりだし、将棋界では数少ない同い年なんだから、もう少し別の呼び方もあるんじゃないかと思ったりもする。
だから、今夜だけは、文字の中だけでは言いたい。
栄ちゃん、おめでとう。
献杯、そして乾杯の酒を。