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【東京】

東京大空襲から71年 各地で追悼 鎮魂と伝承誓う

追悼集会で空襲体験を話す露木直治さん(右)=台東区の隅田公園で

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 忘れてはいけない。下町を焼き尽くした東京大空襲から七十一年を迎えた十日、各地で犠牲者を悼む集いが開かれた。年々、少なくなる空襲体験者や遺族ばかりでなく若い世代も参加し、記憶の継承を誓った。

 約一万二千人が死亡したとされる台東区では、隅田公園の「戦災により亡くなられた方々の碑」の前に遺族ら約百二十人が訪れ、鎮魂を祈った。

 碑は区が一九八六年に建立した。追悼集会は区民ら有志でつくる「東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会」が毎年開いている。

 神奈川県湯河原町から参加した露木直治(なおじ)さん(84)は、参加者の前で東京大空襲の体験を語った。当時は、現在の台東区今戸付近に住んでいた。両親、妹三人と一緒に火の粉を払いながら必死で逃げた。母が幼い娘三人を連れて逃げることを諦め「あなたとお父さんで逃げなさい」と言い出すと、父が「死ぬときは一緒だ」と説得。家族全員で学校に逃げ込み何とか助かったという。

 近所では多くの住民が亡くなった。露木さんは「戦争の被害は甚大。心から犠牲者の冥福を祈りたい」と語った。

 台東区教育委員会の垣内恵美子委員長も出席し、戦後七十年に合わせて区内の大学生らがお年寄りの戦争体験を聞き取った「台東区戦争体験記録集」を発行したことを紹介。「区民の財産として広く共有し学習に役立ててほしい。平和の大切さを伝え、受け継ぐのは大人の責任」と述べた。

 この日は、浅草公会堂で実行委の主催する「東京大空襲資料展」が始まった。

 約三百点の資料を展示。空襲で逃げまどう人々を描いた絵や、焼け跡を撮影した写真、空襲について解説したパネル、東京大空襲の焼失地域を示した地図、空襲後に発行された罹災(りさい)証明書、戦時中の雑誌、児童の疎開先での写真などが並ぶ。実行委員長の川杉元延(もとのぶ)さん(74)は「戦争のひどさを実感し、『戦争は二度と嫌だ』という気持ちになってもらえれば」と話した。資料展は十三日まで(午前十時〜午後五時)。入場無料。 (松尾博史)

◆「絶対戦争しない意思を」江戸川でも250人が参加

 約八百人が死亡、約一万一千戸の家屋が全焼したとされる江戸川区では、区民有志が被害の中心となった小松川地区で追悼式を開いた。会場の小松川さくらホールには約二百五十人が集まり、ホール近くに立つ「世代を結ぶ平和の像」にはたくさんの白いキクの花が供えられた。

 「世代を結ぶ平和の像の会」が主催する追悼式は、今年で二十八回目。区立小松川第三中学校の二年生、福田茉凜(まりん)さん(14)が平和学習の成果を発表するなかで「命についていろいろと考えた。絶対に戦争をしてはいけないという意思を強くもたなければならない」と訴えた。多田正見区長も「三月十日は都民だけでなく、全国民が心に刻まなければならない日」とあいさつした。 (酒井翔平)

◆体験聞き、思い新たに 都庁で「平和の日」式典

 東京大空襲の日にちなみ都が定めた「都平和の日」の記念式典が十日、都庁で、都民や各国駐日大使ら約五百人が出席して開かれた。参加者は空襲に遭った三村栄一さん(83)=千代田区=の体験を聞き、平和への思いを新たにした。

 犠牲者の冥福を祈って全員で黙とう後、舛添要一知事は「平和を次世代に引き継ぐことを誓う」とあいさつした。

 三村さんは小学六年生のとき、二月の空襲で千代田区の自宅を焼かれ、三月十日に避難先の台東区で再び空襲に遭った。「中央区で見かけた丸太ん棒は実は焼け焦げた人だった。自分は体が焼けなくて幸せだと思った」と振り返り、「戦争のない平和な日々が続くことを願っている」と語った。

 

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