聚楽第に未発見の外堀 京大、表面波探査で判明
地震計で地中を調べる「表面波探査」で豊臣秀吉の「聚楽第」跡を調査している京都大防災研究所などの共同研究チームは10日、聚楽第本丸の東側や北側に未発見の外堀跡があったと発表した。天守台の位置も本丸北西部にあたる京都市上京区裏門通一条下ルの「今新在家町(いましんざいけちょう)」周辺が濃厚になった。発掘で証明されれば聚楽第の遺構図が大きく広がり、より詳細になる可能性がある。
探査では聚楽第の記録にない外堀が、城の北側と東側にあった。逆にあったとされる南外堀は検出できなかった。東外堀、北外堀だとすると、聚楽第の範囲は東西760メートル、南北800メートル以上と従来の約1・6倍に広がり、公邸機能だけでなく、本格的な城郭としての姿が浮かび上がる。
また、現在の「今新在家町」あたりで天守台が削られたとみられる高まりを検出。約40メートル四方の天守台と考えられ、同町と隣の「新白水丸町(しんはくすいまるちょう)」の付近に絢爛(けんらん)な天守閣があったと考えられる。絵図通りの本丸北堀跡で土橋跡も検出された。
表面波探査は、地面を木づちでたたいて発生する表面波の強弱を測り、地中の痕跡を見つける。京大防災研の釜井俊孝教授らが防災地盤調査を兼ねて昨年10月から実施していた。チーム代表の府教育委員会の古川匠さんは「定説をくつがえす外堀の存在が検出でき、より広範囲な城と分かった。まだ完全に解明されたわけではなく、今後も発掘などで地道に検証していく努力が求められる」としている。
探査成果の解説パネルと聚楽第の大名屋敷の瓦を市考古資料館(上京区)で4月10日まで展示している。無料。
【聚楽第(じゅらくだい、じゅらくてい)】 安土桃山時代に豊臣秀吉が政庁、邸宅を兼ねて築いた城郭で、1586年から造営が始まった。聚楽城とも称される。金ぱく瓦で飾った壮麗な造りで、後陽成天皇が行幸した。91年においの秀次に譲ったが、95年の秀次失脚後、完全に破却された。
■増築の経過、新たな謎
「聚楽第」の表面波探査で判明した未発見の外堀は、研究者に新たな疑問を投げかけた。その姿からは造営当初から徐々に増築されていった聚楽第の姿が想像できる。
聚楽第は堀川を東の外堀とした説がある。今回判明した東外堀は絵図では大名屋敷があった部分だ。探査をもとにした復元図は聚楽第の最終形態。どのように姿を変えたかは分からない。ただ、増築された記録もあり、同志社大の鋤柄俊夫教授(考古学)は「文献を振り返ると二重の堀との記述もある。これまで東と北の外堀はあまり検討されてなかったが、あらためて秀次時代になってからの姿を考える必要が出てきた」とみる。
一方で、南外堀は探知できなかった。同志社女子大の山田邦和教授(考古学)は「外堀があるはずの南側にないのは意外な結果だった。従来は出水通を下がった『松林寺』付近の段差が南外堀跡とされてきたが、その性格がよく分からなくなる」と疑問を呈する。
ただ、これらの探査成果は推定で確認は今後の発掘調査にゆだねられる。聚楽第跡には「黒門通」や「裏門通」「金馬場町」「高台院町」など由来の地名が残る。今も西陣の暮らしの中に生きる聚楽第だが、住宅密集地で発掘は難しい。その中で、地震計による地中探査を試みた京都大防災研究所の釜井俊孝教授は「思った以上に成果があった。考古学や歴史学に表面波探査が活用できたのは意義深い」とし、今後のさらなる応用に期待している。
【 2016年03月10日 22時10分 】