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「どんな人間にも取り柄はある」という幻想

日記

最後に褒められたのはいつだったろうか、と考えてみてもあまり思い出せない。あまりというかほぼ思い出せない。ほぼというか全く思い出せない。今まで生きてきて褒められなかった訳じゃないはずなのに。1つだけ思い出せるのは中学校の時のこと。家庭科の調理実習で、「ホットケーキ裏っ返すのうまいね!」と言われたことくらい。「ホットケーキを裏っ返す職人になればいいじゃん!」みたいなことを言われたのも覚えている。無職の身としては、そんな職業あったら今すぐ応募したい。いや、やっぱりしたくない。ホットケーキを裏っ返す瞬間にのみ能力を発揮してもらうべくそのポストを用意するなんて、その瞬間に相当なプレッシャーがかかるだろう。世界中のセレブたちが集まる中でエンターテイメントパフォーマンスとしてホットケーキを裏っ返す、みたいなことをしないとそれだけでは食っていけないだろう。まぁ何にしても、自分で覚えている「褒められたこと」なんてそれくらいだ。

「どんな人間にも取り柄はある」みたいな言説が嫌いだ。嫌いというか怖い。だって、裏を返せば「本当に何も取り柄の無いやつは人間じゃない」ということだろう。自分の取り柄とか長所なんて、全く思いつかない。取り柄って何なんだろう。「どんな人間にも取り柄はある」という言葉の奥にあるのは、誰だって長所があれば短所もあるよということなんだろうが、長所が思いつかない。となると、じゃあ自分は一体…みたいな気分になる。長所も短所も表裏一体。例えば自己中心的な奴はものすごく良い感じに言い換えれば「億すことなく自分のスタンスを明確に誇示できる人」となる。どちらも嘘ではないし真実をいくらか含んでいる。それがどの程度「長所足り得る」か、その長所を取り柄として扱えるかはわからないけど。自分は短所がたくさんある。書き出してテキストファイルにしたらdropboxの容量いっぱいになるくらいにある。が、それらを良い感じに言い換えることができても、それが長所足り得るくらいに受け入れられるものなのだろうか、取り柄として言えるかと思うと、ノーだ。

自分で見つけることは出来なくても、褒められることを通して何かしら自分のいいところを発見できたのではないかとも思うが、やっぱりあまり褒められたことを思い出せない。どうにかひねくりだして、ああ、そういえばあの仕事の時こう褒められたのは思い出せるな…ということはいくつかあるけども、ただそれが本当に自分の取り柄となりうるのかと思うと疑問だ。自分としてはそう価値のあるとも思えないことを褒められたという感じがあるので、リップサービスだったんじゃないかと疑わしい。それが褒めた側の人間から見て褒めるべき事実に見えていたのだとしても、自分にはそうは見えない。外的評価と内的評価が一切噛み合ってない。そう考えると、唯一それがある程度噛みあうというかそれを受け入れられたのがホットケーキを裏っ返せることだったんじゃないかと思う。ただ、他の人達が自分の取り柄は○○の資格を持っていてその資格と☓☓の知識を組み合わせて活かせることです、みたいなことを言う横で、「自分の取り柄はホットケーキをうまく裏っ返せることであります!」とか言ってたらイタさ大爆発だ。言い訳にしてもなんかもっとマシなのあるだろ…。

じゃあ自分が好きなことを取り柄として設定してしまえばいいじゃんというのも、またそれはそれで問題がありそうな気がする。取り柄であるということは、それがそれなりのレベルに達していて欲しいというのが他の人からの願いであろう。人間関係においてそれが元で齟齬が発生したりしそうな気がする。単語とかよく分からないけどアルファベット全部言えるしなんかアルファベットの形が好きだから英語が取り柄です!とか言っても、周りは「ああ、ある程度英語の読み書き出来るんだな」と受け取られたら、その後に悲劇が起こることは想像に難くない。外的評価と内的評価が合致することなんて絶対ないけど、ある程度同じくらいの水準でないとそれはやっぱり取り柄足り得ないんじゃないか。

トリビアの泉というテレビ番組があった。しょうもないムダ知識を紹介していく番組。アラサー以上の人は見たことあると思う。自分もあの番組が好きでよく見ていた。毎週のように見ていたのに、その知識は殆ど覚えていない。が、1つだけ明確に覚えているものがある。ナンバーワンとオンリーワン、どっちのほうがいいのか、というのを検証するという企画。検証といっても、当時流行った「世界に一つだけの花」の作詞をした槇原敬之に、正直どっちのが良いですか?と聞くだけだったけど。ご存知「世界に一つだけの花」はみんな違ってみんな良い、ナンバーワンという考え方もあるけど、オンリーワンという考え方もあるよ、個性が大事だよというような事が歌詞に乗せられている。で、当の槇原敬之はその質問をぶつけられて1時間以上悩んだ挙句「ナンバーワンのほうがいいですね」と答えた。それを見てスタジオ大爆笑。見ている自分は1ミリたりとも笑えなかった。何が面白いのか、どこが笑えるポイントなのか全くわからなかった。個性とかオンリーワンなんて言葉が持て囃されてそれらを持てなんて誰もが言ってた時だった。別にその答えが個性を否定してるわけでもないけど、そりゃやっぱ一番であるほうがイイよねという答えに「やっぱそうだよね…」という感想しか持っていなかった。

「2位じゃダメなんでしょうか?」という一発ギャグがある。いや、ギャグじゃないけど。いや、あの状況だとギャグと捉えられてもまぁ間違いとは断定できないけど。まぁそんな言葉というか有名な質問がある。これはコンテクストを変えれば有用にも思える。結局、自分の理想が高すぎるから自分を受け入れられないんじゃないか。ほぼ確実に、自分は何においても一番にはなれない。ギネスレコードのわけわかんないチャレンジみたいなものなら一番になれるかもしれないけど、それに価値を見いだせない。そもそも一番とは、どこで一番なのか。世界だったら絶対に無理だ。日本全体でなのか、会社や学校でなのか、クラスやその部署で一番なのか、家族の中で一番なのか。抽象的で曖昧だ。抽象的に曖昧にナンバーワンが良いよねと思っていた自分は、どこに行ってもナンバーワンにはなれないだろう。上には上がいる。家族で一番になっても、部署で一番になっても、より大きな規模になればその上がいることは容易に想像できる。そんな理想の立て方に意味が無い。槇原敬之の答えを笑えなかった自分は、そういう現実との折り合いを付けられなかったから笑えなかったのではないだろうかとも思う。そして、なぜ一番というか順位に変にこだわろうとするのか、そのこだわりが理想に対する思い込みを生み出して、長所も見いだせず、人からのお褒めも受け止められなくなったのではないかと思い始めたりした。どう現実と折り合いをつけるか、どう自分の価値を自分で見いだせるかが取り柄を作れるかの鍵になるんじゃないかと。

とか考えながらGooglePlayミュージックをシャッフルしながら聞いてたら、こんな歌詞の曲が流れてきた。

素敵なあなたを讃えます 私には取り柄なんてないですので

椎名林檎の「モルヒネ」。あんたとんでもない取り柄持ってるやんけ。一生食うに困らないレベルのとんでもない取り柄持ってるやんけ。あんたのその音楽の才能が取り柄に入らなかったら、世界の多くの人間はどういう位置づけになるのか。というか椎名林檎をもってしてここまで言わせる「あなた」はどんな化物だよ。やっぱり自分はド田舎の中学校の小さなクラスで最もホットケーキを裏っ返すことが出来るくらいに思っているだけで十分な気がしてきた。取り柄なんて、クソ喰らえ。