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感想文

本や映画や、いろんなことの感想文を書いています。

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広島の中3自殺事件について思うこと

つぶやき 思うこと

一連の報道を見聞きして

本当に酷いと思う。

 

いい加減な学校。

いい加減な校長。

 

そんないい加減な学校の酷いミスがきっかけで

自ら命を絶ってしまった15歳の少年。

本当に可哀想。

私が親なら、やりきれない憤りを学校にぶつける。

 

 

 

 

『指導死』

という言葉がある。

 

喫煙などがきっかけで先生に呼び出され、個人的に指導を受けた直後

学校の窓から飛び降りたりして

命を絶ってしまう子がいる。

 

 

2つの死は決して同じくくりではないけれど

共通点もある。

 

それはどちらも

『突発的な行動』

だということだ。

 

 

 

長期間、苦しんで苦しんで

精神を蝕まれて、死を選んでしまう

いじめや、うつや、継続した体罰が原因の自死とは

根本的に違う。

 

 

 

 

突発的な自死は

 

たとえば怒りにまかせて

たまたまその場にあったものに当たり

投げて壊してしまうことと

少し似ている気がする。

 

 

壊してしまったものが

自分の命というだけで。

 

 

 

こういう悲しい出来事があると

問題視されるのはいつも

自死の原因となった学校の対応だけれど

 

 

 

根本的な問題はそこにあるのか?

 

 

みんな口に出しては言わないけれど

本当は心のどこかで思ってるんじゃないか?

 

 

そんなことで死ぬなよ

 

 

って。

 

 

 

 

 

 

私たちが考えなきゃいけない問題は

学校うんぬん、先生うんぬん以上に

 

 

子供たちがあまりにも

自分の命を軽んじてること

そのものなんじゃないか?

 

 

 

 

納得いかないこと

理不尽なこと

そんな突然の出来事に遭遇したとき

怒りに任せて

衝動的にお皿を割ってしまうことがあるように

 

人を刺してしまう人がいるように

 

 

自分の命を絶ってしまう子供たちがいる。

 

 

 

目を向けなきゃいけないのはむしろ

そんな子供たちの方なんじゃないか?

 

 

子供たちがなぜ、そんなにも短絡的に

自分の命を投げ打ってしまうのかの方が

直接的な学校のミスよりも

はるかに大きな問題だと私は思う。

 

 

 

 

 

 

自ら死ぬ

ということは

誰かの唯一無二の宝物を

壊してしまうことと同義だ。

 

もっと言えば

誰かの大切な人を

殺してしまうこと

つまり殺人と何ら変わりない。

 

 

人を殺す殺人と

自分を殺す自殺と

根本的な違いはない

 

 

と、私は思う。

 

 

 

 

 

私には子供が2人いるんだけど

 

子供たちにとって

自分が、誰よりも何よりもかけがえのない存在だということを知ってる。

自分がいなくなった後

残された子供たちのことを思うと、あまりにも不憫で

想像しただけで涙が出てしまう。

 

だから

何があっても絶対、自分は死んじゃだめだ、と思ってる。

 

子供たちのために

誰の命よりも

自分の命を大切にしてる。

 

 

 

私の父は、6年前に自殺した。

父は、母の最愛の人を殺した殺人者だ。

母にとって、自分がどんなに大切な存在だったのか

父には自覚がなかったんだと思う。

そうでなければ、心優しい父が、自分を殺せるわけがなかった。

 

 

 

 

 

何がいいたいかというと

誰かにとって

自分の存在が、何よりも誰よりも大切なんだということを

ちゃんとわかっていれば

カッとしてお皿を割るように

自分の命を絶ったりすることなんて、できないんじゃないか?

ということ。

 

 

たとえ、どんなに理不尽なことがあっても。

 

 

もし

それをわかった上で

それでも突発的な理由で突発的に死んでしまうなら

それは、とても、想像力や思いやりに欠けた行動だと思う。

 

 

 

 

未熟だから?

子供だから?

理解力が未発達で、命の大切さを自覚できなかった?

想像力、思いやりの心の発達が不十分だった?

 

 

 

 

少年法が適用されるのは何歳までだっけ?

 

子供だからが通用するのは何歳まで?

 

人のせいにできるのは、何歳まで?

 

15歳で殺人を犯せば、それは立派な犯罪になるんじゃなかったっけ?

 

 

 

 

 

 

 

 

理不尽なことはあるよ。

納得いかないこともあるよ。

誤解されることも、冤罪をかぶることもあるよ。

たとえ自分に一切の非がなかったとしても。

先生も親も、友達も、誰一人、自分を理解してくれないこともある。

 

 

でも

それでも

『死なない』子を私は育てたい。

 

 

 

 

 

データの管理ミスや

指導上の問題点を再考、改善するのは

学校がすべきことであって

 

私たちのするべきことは

ミスを犯した学校を連日吊るしあげて非難することじゃない。

 

 

私たちの課題は

 

「怒られたから」

「自尊心を傷つけられたから」

「理不尽な理由で希望する進路に進学できないから」

 

そんな理由で死んでいいほど

あなたの命は軽くないんだっていうことを

子供たちに伝えていくことだと思う。

 

自殺は、何かを主張するための手段じゃない。

命とひきかえにしていいものなんてない。

 

 

 

そんなことで死ぬなよ!!

 

 

 

子供がこんなにも簡単に命を捨ててしまう。

生き抜く貪欲さを持てない。

自分の命の価値を過小評価しすぎている。

10年以上、育ててくれた、一番身近なはずの親の気持ちさえ想像できない。

 

 

命が軽すぎる。

 

 

そんな世の中をつくっているのは

私たち大人だ。

 

 

もっと、当事者意識を持つべきだと思う。

 

 

15歳の自殺は

学校のせいじゃない。

私たち大人のせいだ。

 

 

命は何よりも

夢よりもお金よりもプライドよりも

大切なんだということ。

 

 

 

 

殺してはいけないこと。

人も。

自分も。

 

  

15歳にもなって

そんな根本的な価値観が育ってないなんて。 

 

誰も、彼に教えられなかったなんて。

 

 

 

 

たった15年しか生きずに

命を放り投げてしまった少年に

心から謝りたいと思った。

 

 

少年の死を無駄にしないよう

私たちは

ありとあらゆる手段と方法で

伝えていかなきゃいけない。

 

 人のせいにして、批判してる暇なんてない。

 

 

 

 

1番いけないのは

大人が自殺することだ。

父みたいに。

 

 

 

 

 

こんなことを書いてる私の価値観は

父の自殺で崩壊してしまったので

自分こそが誰よりも

命を軽視している気がして

ぞっとする瞬間もあるんだけれど。

 

 

 

少年が今、苦しみの中にいないことを、心から祈ります。

 

 

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