事実上の2代目である朴斗秉氏は、自分の名前をつけた「斗山グループ」を設立し、初代会長に就任した。

 韓国の高度経済成長とともに、斗山グループは、ビールを中心とした消費財を主力とする財閥として成長を重ねた。

初代会長が定めた「継承ルール」

 朴容晩会長が「家族会議」と言ったのには、それなりの理由がある。

 というのも、1973年、朴斗秉氏は「経営継承ルール」を定めて子供たちに言って聞かせた。

 「息子たちによる共同保有、共同経営」だった。

 韓国の財閥の場合も、オーナーが、自分の子供中から1人を後継者に選ぶ場合が多い。後継者にならなかった子供たちには、グループ企業を分離させて継承する。それでも後継者は1人という例が多い。

 ところが、朴斗秉氏は息子たちにそれぞれ株式を持たせ、協力して経営にあたらせた。それだけではない。グループ会長も、兄から弟へ「順送り」することを決めたのだ。

 朴斗秉氏の息子たちは、この父親の教えを守り、長男から順番にグループ会長になった。いつ、会長職を交代するかなどは「家族会議」で決めるわけだ。

 朴容晩会長は、初代会長の5男だ。6男は、家業を継がずに独立することを決めたため、「最後の息子」だった。

 創業者の孫、初代会長の息子の代が終わり、グループ会長は、初代会長の長男の長男にあたる朴廷原氏に引き継がれることになったのだ。

 いまだにこういう経営権継承が続いていることは、韓国財閥でも特異な例だ。もちろん、この間の継承がすんなりとばかり運んだわけではない。