以前、勢いで書いたTwitter連投小説「横浜駅SF」の間を埋める試み
【第一話】
その朝、富士山は黒かった。
昨日までコンクリートで埋め尽くされた白富士が、一夜にしてエスカレーターの黒一色に染められたのだ。それは長かった梅雨が明け、夏が来たという印だった。
「斜度が影響している」
教授が富士のほうを見ながら言った。
「ストラジーンは一定斜度がある場所にエスカレーターを形成するように記述されている。しかし同様に雨が続くとコンクリートの屋根を形成する。富士山では頂上付近と麓の天候の違いが一定パターンに則ることで、エスカレーターとコンクリートの層がパイ状に重なった構造ができる。これが白富士と黒富士の構成原理だ」
「そうか」
三島ヒロトは相槌を打った。教授の言っている内容は殆ど理解していなかったが、この孤独な老人の相手をするのがヒロトの仕事の一つでもあった。
「教授」と呼ばれるこの認知症気味の老人が九十九段下にやって来たのは、今から二十年ほど前の事だった。エスカレーターの下に雑巾のように転がっていた教授を見つけたのは幼いヒロトだというが彼の記憶にはない。その頃の教授は髪も黒くてまだ頭もはっきりしていたが、言葉がほとんど通じなかった。どうやらエキナカのうちでも、かなり岬から遠い地域に住んでいたらしい。
どうにか意味が通じたのは、彼が「エキナカ」の「ラボ」で「教授」をしていたという事だった。横浜駅を追い出されたという事はおそらくSUICA不正利用判定を出されたという事だ。この岬には、駅から排出される期限切れの食料や廃棄された機械部品などと一緒に、たまにそういった「不正利用者」が吐き出されてくる。
しかし彼が何をやらかして駅を追い出されたのかはわからなかった。そして教授がヒロト達の言語に慣れる頃には、今度は頭のほうが不明瞭になってしまった。
ひとしきり富士山表層の横浜駅増幅原理について語り終えたあと、教授は反応を見るようにこちらを向いた。それでようやく今話している相手がヒロトである事に気づいたらしく
「今日、出発するのだったな」
と言った。
「…ああ。世話になったな」
「お互い様だ」
ヒロトたちの暮らす岬は、横浜駅14159265番出口の長い長いエスカレーター(二本あって二本とも下り)の下にある事から「九十九段下(つくもだんした)」と呼ばれてみた。実際は九十九段よりもずっと長い。逆走して登ろうにも、途中で休むとすぐ下に流されてしまう。岬の子どもたちの間では、このエスカレーターを上まで登り切ることが「一人前の証」とされていた。
エスカレーターを登り切ったところは「花畑」と呼ばれるゴミ捨て場で、そこを暫く行ったところに自動改札たちが待ち構えるエキナカへの入り口があった。そこまでが彼らにとっての「世界」の全てだった。横浜駅の外で生まれSUICAを持たない彼らは「エキナカ」に立ち入ることはできない。たまに他のエキソト・コロニーとの交易のための船を出す以外は、この岬で一生を過ごすのだった。
「よう、行くのか」
エスカレーターを登り切ったところにヨースケがいた。
ヨースケはこの「花畑」で、横浜駅のエキナカから廃棄されたゴミを活用する「掃除人」だった。期限切れ直後の弁当、機械の部品、そういったものが毎日のように流れてくる。ヨースケ達は使えそうなものをより分けてエスカレーターの下に送り、それ以外を自動改札の側にあるダストシュートに投げ込んでいた。ダストシュートがどこに繋がっているのかは誰も知らない。
「今日は電波が強い。多分、近くに新しい基地局が生えたんだろう。天気もいい。旅立ち日和だ」
ヨースケは言った。横浜駅構内ネットワーク「スイカネット」の基地局はエキナカにしか存在しない。だが「花畑」のようなエキナカのすぐ近くであれば、こぼれた電波を拾ってくることが出来る。ただ基地局の位置も刻一刻と変わるので、通信はきわめて不安定だった。
「見ろ。さっきスイカネットで拾った画像だ。登山者が撮ったらしい」
と、ヨースケが示したのは看板の画像だった。よく見る駅構内案内板で
「横浜駅最高地点 海抜 四〇一二メートル」
とある。
「富士山の頂上か」
「ああ。自然の地形は3800くらいまでらしいがな。駅が積りに積もって4000を越えてる」
「花畑」の窓からも黒富士が見えた。あの山もかつては雪と土壌を露出させた火山だったという。横浜駅が増殖をはじめてから四世紀あまり、もはや自然の山は本州にほとんど残っていない。
「結局、おれの頼んだ情報は見つからなかったのか? 駅構内の地図とか」
「ああ、悪いが無理だった。このシステムはあくまでスイカネットを流れてくるパケットを拾い集めるだけなんだ。こっちから特定の情報にアクセスすることはできない。SUICA認証が出来ればもっと色んなことができたんだけどな」
ヨースケは画面を切り替えた。地図らしいものが表示されたが、フォントが明らかに前時代的だ。
「これが今のところ手に入れた最新版。2世紀前の横浜駅構内図の断片だ。地名から推測するに、たぶん宮城の牡鹿半島あたりだ。ずっと北の方だな。どうする、持ってくか?」
ヒロトは黙って苦笑いした。
「ヨースケ。お前もたまには下に降りたほうがいいぞ、おふくろさんが心配している」
「嫌だね。最近は食ってばかりだから足も鈍ってきてるんだ。降りたらもうあのエスカレーターを登れない」
ヨースケの体は、去年の暮れに会ったときよりもまた一回り丸くなっていた。子供の頃どちらが先にエスカレーターを登りきれるか競い合っていた頃の面影はもう無い。
「お前こそ、マキを置いていっていいのか? 一緒に来い、とか言えばよかったのに」
「18きっぷは一人で五日間までなんだ。二人で使うと有効期限が半分になるんだとよ。あの男はそう言っていた」
「ふーん。じゃ、お前が戻って来なかったら、俺が責任をもってあいつの面倒を見よう」
「お前はまず自分自身の面倒を見ろ。流れてくるものを食べるだけの生活から離れてみるとかな」
「なーに。何やかんや言って九十九段下の生活は俺たちが支えてるんだぜ。下々の者達もそのところは分かっていようよ」
ヨースケはカカカカと笑った。
岬には、わずかな土地を使って農業をする者、船を出して交易をする者、ヨースケのような「掃除人」がいたが、全体的に労働人口に対する仕事は不足していた。そもそも横浜駅から廃棄されてくる食料が、この狭い土地にいる人口に比べて過剰なのだった。ヒロトも岬で決まった仕事はなく、海を眺めたり、教授の相手をしたりして日々をやり過ごすことが多かった。
ただ彼らの懸念は、横浜駅から廃棄される食料の量があまり安定していないという事だった。駅のちょっとした気まぐれで廃棄物の経路が変化して、この九十九段下に食料がもたらされなくなる事もありうる。そうやって滅びたコロニーの噂はいくつか聞いたことがあった。
「駅に依存しない生活」
と岬の酋長たちは目標を掲げていたが、目下の食料「自給率」は二割に満たなかった。若者たちは自分たちを「横浜駅の家畜」と自嘲的に言っていた。家畜ならもう少し駅に有意義なことをするべきではないかとヒロトは思ったが、この巨大生物にとって何が「有意義」なのかなど、彼の想像力の及ぶところではなかった。
自動改札がその両手を勢い良く広げて、ヒロトの進入を阻んだ。
「SUICAが確認できません。お客様のSUICAまたは入構可能なきっぷをご提示ください」
「これで頼む」
ヒロトはポケットから小さな箱を取り出した。
「18きっぷを認証いたしました。有効期限は本日から5日間になります。5日が経過すると駅構内からの強制排除が執行されます。以上のことに同意いただける場合は画面にタッチをおねがいします」
自動改札の顔の液晶パネルに
「規約を確認し同意」
のボタンが表示された。ヒロトはそのボタンに触れた。
「ようこそ横浜駅へ」
「本日はJRをご利用いただきありがとうございます」
自動改札は重々しくその両手をおろした。ヒロトにとって、そして九十九段下に住む殆どの人間にとって、もう何世紀ぶりかも分からない横浜駅「エキナカ」への旅立ちだった。
(第2話へつづく)