武田の隠し財宝
って昔テレビでよくやってましたが
この隠し財宝は甲州ではなく芸州の話です。
「白南天の宝物
むかしむかし安芸の国の武田と言う御殿様が城をせめおとされてほろんでしまいました。
その御殿様はいよいよ城がおちるという時に城から東南にあたる山の中腹に
大判小判とたくさんの宝物をうめてその上に白南天の木を植えておきました。
御殿様の考えではのちに武田の家のさいこうの軍資金として
この宝物をつかわせようとしたのです。
武田の御殿様がほろんだその翌年の春の事でした。
一人の虚無僧が宝物がかくしてあるという山へどんどんどんどんのぼっていきました。
虚無僧が山の中腹にある御堂に辿りついたとき、お堂のかげからのっそりと大男がでてきました。」
(「安芸・備後の民話Ⅰ」未来社1959年発行p122引用)
この後財宝の番人である武田の元侍の大男と
虚無僧のバトルが始まって、結局虚無僧が男を倒してしまうんですが
結局白南天の木はみつからず、無心で登ったひとだけに
みつかるという話で終わっています。
隠し財宝とか聞くと
トレジャーハント的なわくわく感が生まれますが
まず歴史の矛盾点から容赦なくつっこみます。
武田氏最後の当主は武田信実は
郡山合戦で尼子氏が敗れたのを聞いて
牛尾幸清と共に逃げたと陰徳太平記ではなっています。
実際この時期の銀山城攻めの感状はすべて
武田家人等御誅伐となっており
武田信実は銀山城にいなかったと推定できると
「安芸武田氏」にはあります。
よって、銀山城滅亡時に武田信実は城におらず
いよいよという時に財宝を隠すことは不可能です。
加えてこの武田信実は若狭本家から来たばかりの殿さまで
代々の宝をためてきた隠し財宝の事を知らない可能性もあります。
ただ、武田信実という人物はかなり謎に包まれており
周防武田氏の家譜によれば「伴繁清の子」になっています。
この伴繁清の子であれば重臣の伴氏の子どもですから
武田家代々のお宝のありかを知っていても不思議ではないのですが
「安芸・若狭武田一族」によれば若狭の「羽賀寺年中行事」という本に
若狭本家が尼子氏から信実を安芸武田氏の跡目を継ぐように要請されたとあり、
離れた場所の記述が同じ方が信ぴょう性が高いので
恐らく最後の当主は若狭からきた人物である可能性が高いです。
実際、当主を失い、残った家臣団達は大内氏と和睦し
武田氏の家宝である武田氏の祖・新羅三郎義光とつたわる楯無の鎧が
大内氏の手に渡り、厳島神社の宝物殿に納められて
現在国宝となっています。
また周防武田家の家譜では銀山城に残されていた武田家伝来の家宝は
玖珂にかくまった光和の正室で元就の姪にあたる八重と
光和の庶子とされる養子のもとへ元就が届けたとあります。
実際に武田家の具足などが伝わっていることから
一番大事な家宝よりもお金を優先させたのかな?と思います。
そもそも大判・小判はこの時代ではありません。
まあ話をわかりやすくするために変えたのかもしれませんが。
あと白南天ですが
南天のアルビノ系なのでレアといえばレアです。
遺伝的に劣勢のようなので確かに目印にするにはうってこいです。
ですが周りに赤南天があると白南天の種にならないようなので
おそらく今見つけるのは難しいですし
そもそも財宝があるかどうか難しいです。
加えて銀山城の東南にある御堂ですが
十王堂という地名が残っている場所があります。
が、本丸からかなり山裾に降りた場所で
下には大内氏の大軍勢が囲んでいるのに
わざわざ敵に近付いて隠すのはおかしいです。
もっとも地元の伝承には山の北側から攻められて
落ちたとあるので東南に逃げるというのはおかしくないのですが
そもそも本人はいないわけであって
変な話です。
なのでこの隠し財宝はかなり眉つばものだなあと
思いました。
この隠し財宝は甲州ではなく芸州の話です。
「白南天の宝物
むかしむかし安芸の国の武田と言う御殿様が城をせめおとされてほろんでしまいました。
その御殿様はいよいよ城がおちるという時に城から東南にあたる山の中腹に
大判小判とたくさんの宝物をうめてその上に白南天の木を植えておきました。
御殿様の考えではのちに武田の家のさいこうの軍資金として
この宝物をつかわせようとしたのです。
武田の御殿様がほろんだその翌年の春の事でした。
一人の虚無僧が宝物がかくしてあるという山へどんどんどんどんのぼっていきました。
虚無僧が山の中腹にある御堂に辿りついたとき、お堂のかげからのっそりと大男がでてきました。」
(「安芸・備後の民話Ⅰ」未来社1959年発行p122引用)
この後財宝の番人である武田の元侍の大男と
虚無僧のバトルが始まって、結局虚無僧が男を倒してしまうんですが
結局白南天の木はみつからず、無心で登ったひとだけに
みつかるという話で終わっています。
隠し財宝とか聞くと
トレジャーハント的なわくわく感が生まれますが
まず歴史の矛盾点から容赦なくつっこみます。
武田氏最後の当主は武田信実は
郡山合戦で尼子氏が敗れたのを聞いて
牛尾幸清と共に逃げたと陰徳太平記ではなっています。
実際この時期の銀山城攻めの感状はすべて
武田家人等御誅伐となっており
武田信実は銀山城にいなかったと推定できると
「安芸武田氏」にはあります。
よって、銀山城滅亡時に武田信実は城におらず
いよいよという時に財宝を隠すことは不可能です。
加えてこの武田信実は若狭本家から来たばかりの殿さまで
代々の宝をためてきた隠し財宝の事を知らない可能性もあります。
ただ、武田信実という人物はかなり謎に包まれており
周防武田氏の家譜によれば「伴繁清の子」になっています。
この伴繁清の子であれば重臣の伴氏の子どもですから
武田家代々のお宝のありかを知っていても不思議ではないのですが
「安芸・若狭武田一族」によれば若狭の「羽賀寺年中行事」という本に
若狭本家が尼子氏から信実を安芸武田氏の跡目を継ぐように要請されたとあり、
離れた場所の記述が同じ方が信ぴょう性が高いので
恐らく最後の当主は若狭からきた人物である可能性が高いです。
実際、当主を失い、残った家臣団達は大内氏と和睦し
武田氏の家宝である武田氏の祖・新羅三郎義光とつたわる楯無の鎧が
大内氏の手に渡り、厳島神社の宝物殿に納められて
現在国宝となっています。
また周防武田家の家譜では銀山城に残されていた武田家伝来の家宝は
玖珂にかくまった光和の正室で元就の姪にあたる八重と
光和の庶子とされる養子のもとへ元就が届けたとあります。
実際に武田家の具足などが伝わっていることから
一番大事な家宝よりもお金を優先させたのかな?と思います。
そもそも大判・小判はこの時代ではありません。
まあ話をわかりやすくするために変えたのかもしれませんが。
あと白南天ですが
南天のアルビノ系なのでレアといえばレアです。
遺伝的に劣勢のようなので確かに目印にするにはうってこいです。
ですが周りに赤南天があると白南天の種にならないようなので
おそらく今見つけるのは難しいですし
そもそも財宝があるかどうか難しいです。
加えて銀山城の東南にある御堂ですが
十王堂という地名が残っている場所があります。
が、本丸からかなり山裾に降りた場所で
下には大内氏の大軍勢が囲んでいるのに
わざわざ敵に近付いて隠すのはおかしいです。
もっとも地元の伝承には山の北側から攻められて
落ちたとあるので東南に逃げるというのはおかしくないのですが
そもそも本人はいないわけであって
変な話です。
なのでこの隠し財宝はかなり眉つばものだなあと
思いました。
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